2009年03月28日

心を磨くとは、周囲に感謝し、人に喜ばれる存在になる。(釈迦)

私達は一日に心の底から何回感謝しているでしょう。このように世の中が不景気なってくると、よく愚痴を言っている人は見かけますが、感謝している人を見るのが少なくなったような気がします。

白隠禅師が作った坐禅和讃に、「六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏みそえて、いつか生死を離るべき」という一段があります。

要するに「愚痴を言っている間はこの世の地獄だよ。そんなことは人生が終わる前に早く止めようよ。」と言っているのですね。私もそう思います。

愚痴を言って状況がよくなるなら、朝から晩まで愚痴を言い続けたらいいのですが、必ず状況はもっと悪くなります。でも愚痴を言いたくなる心境も判らないでもありません。

私はこう思ったらいいと思います。自分に試練が与えられると自分を鍛えるために天が用意してくれた心の授業なのだと。人生がうまく行かないと悲観的な気持ちになりますが、授業だと思うと「さあさあ、天は次に何を私に教えようとしているのかな?」と思えます。自分で問題を解くのです。人に助けてもらって答えが間違っていると人を責める気持ちが湧いてきますから。それがまた愚痴になります。

こうなると試練も自分を鍛えて育ててくれるので感謝です。順風満帆の中で人格なんて絶対に育ちませんから。

がんの末期になると普通に息をして食べて生きていることだけで感謝の念が湧いて来ます。がんで去年亡くなった私の母親が言っていました。「収入が減ったので腹が立つ!」なんてそのような状態では思うことは絶対ありません。普通に生きているだけでありがたいのです。思い通りに行こうと行くまいと、何があっても普通に生きていればやはり感謝でしょうね。

考えてみてください。愚痴を言って一生暮らすのと、感謝の心で一生暮らすのと、自分の一生でどちらが良いか。順風満帆では何でもうまく行くのが当たり前で、感謝の念など湧きませんよ。何に感謝したら判らない人の特効薬は死ぬほど苦労することです。普通に生きていることが何よりもありがたくなります。

日常を感謝の心で暮らそうと思うと、やはり人に尽くすことですね。そうすると人も貴方に感謝します。感謝と感謝が合掌しあっているようなものです。

私は、多分これを極楽というのだと思います。それなら自分で極楽を作ることができますね。困った人がいれば自分ができる範囲で助けて、人に感謝してもらったら、感謝してくれる相手の心に感謝すればいいのですから。「心を磨く」とはこういう事でしょうね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 20:43| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月27日

心を作るのは言葉、言葉は心のあらわれ (釈迦)

言葉と心

言語には、すこぶる強烈な暗示力が固有されている。
だから積極的人生の建設を志す者は
消極的な言語をたとえ戯れにも口にしてはならないのである。

具合が悪いときに具合が悪いといったら
具合が悪いのが治るかい?


正しい心を作る言葉の大切さ


私は今後かりそめにも、わが舌に悪を語らせまい。
否、一々わが言葉に注意しよう。
同時に今後私は、もはや自分の境遇や仕事を、消極的な言語や、悲観的な言葉で、批判するような言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌剌たる勇気と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。

これらは明治の哲学者、中村天風の言葉で、私の「心のトレーニングマニュアル」に取り入れています。私はこれを実践しています。腹が立つこともあるし、悲しく落ち込む時も人間ならあります。しかし、自分の気分の赴くままにマイナスの言葉を発していても決して状況は良くならないのです。

だから次の言葉をよーく読んで落ち込んだ時には思い出してください。

自分は力だ

私は力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、
否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
そうだ!
強い、強い、力の結晶だ。


笑うこと

さあ今日から、努めて笑うことにしましょうや。
特に悲しいことや辛いことがあったら、
いつにもまして笑ってごらん。
悲しいこと、辛いことのほうから逃げていくから・・・・・

私はどれほどこれらの言葉で救われたことか・・・。天風先生に大感謝です。
さあ、皆さんも落ち込んでいる閑があったら笑いましょうや。笑っていれば必ず状況は好転します。辛ければ辛いほど、悲しければ悲しいほど、苦しければ苦しいほど笑うのですよ。私達は今どのような境遇にいる人でも本来「力の結晶」なのです。それに早く気づきましょうよ。どんな苦難にも打ち克つ力が本当に湧いてきますよ!

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:49| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月26日

人間の修行とは、他人に喜びを与えることである (釈迦)

私達はよく心を磨くとか人格を磨くとか言いますが、果たして心や人格を磨くとはどういうことなのでしょう。「真に立派な人」というのは、資産をたくさん持っている人や、社会的肩書きの素晴らしい人、自分の良い行いを宣伝している人を指す事で無い事は確かですね。それは今までの私のブログを見て頂いたら良く判ると思います。

世の中一般の人間は人生の主な目標を物質的に豊かになることに置き、それがある程度叶えられると地位や名誉を一生涯をかけて求めていきます。中には最初からどれもこれもみんな欲しいという強欲な人間もいます。

お釈迦様は悟りを開いた後、インドの村々を説法をして回りました。多くの人がお釈迦様に帰依していきましたが、その中には王族諸侯も多くいました。そして、お釈迦様に土地や大きな寺を与えようとしました。

「真理を説くのに伽藍殿堂は要らぬ!」と、お釈迦様は一切このような申し出を断りました。自分の修行のため、また大衆に道を説くのに立派な寺など要らないということです。そして自ら数名の弟子と共に田舎の村々を回り説法をしていきました。説法の旅の途中、ある村で病に倒れ亡くなっています。悟りを開いてからは、仏道を何処までも大衆に説いて回る事を自らの修行としていたのです。

お釈迦様の説法で多くの人の心が救われました。人生で何が一番大事なのかを説法を聞いて人々が気づき、自らの心、人生を救っていったのです。私はこのように人に真の喜びを与えることができるお釈迦様こそ、本当に立派な人格者であり、磨き抜かれた心の持ち主であると思います。

私は、もちろんお釈迦様のような説法はできませんし、その人格も足元にも及びません。ただ、人に喜んでもらえることはできると思っています。自分の周りで困っている人の助けになることはできると思います。それらを一つ一つ実践していって、私なりに自分の心を磨いていきたいと思います。それが人間として生まれた者の修行でしょうね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 20:55| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月25日

人生の終わりに何を持っていく?

人は人に与えた喜び、悲しみだけをもってあの世に逝くのだ・・・釈迦

人は皆、頭ではお金や家などの財産、社会的肩書きなどを死ぬ時に持っていけない事を知っています。でも、生きている間はそれらに執着し、それら財産を得るため、また守るために必死になります。分かっているのにやっちゃうのです。でも、もっともっとよく考えた方がいいと思いますよ。

ちょっと想像して下さい。もし、貴方が癌で余命を告知されて死の床に寝ていたとしましょう。いくら立派な家に居ても、いくら預金通帳の残高があってもそれが貴方にとってどれほどの意味が有るでしょうかね。

貴方は身体を横たえながら何を想うでしょう?死の床にあって「俺の家は何と立派なんだろう。」「預金通帳の残高は増えたかな!」なんて想う人は変人奇人の部類に入ると思います。

人間死ぬ時は家族との思い出、今までの人生の出来事、楽しかったこと、悲しかった事、嬉しかった事、子供の頃の事を想うのが普通です。

要するに人は死ぬ時にもし持って行けるものがあるとすれば、生きていた時の思い出しか無いのです。では、どの様な良い思い出を持って行きたいですか?自分が出世した思い出?金持ちになった思い出?

私は自分の行いで人に喜んでもらった思い出が、「自分はこの世に生まれて来た価値があった。自分は精一杯生きた!」と自分の人生に納得できる一番の思い出だと思います。結局人に尽くすことは自分のより良い人生に尽くすことになるのですね。

見せ掛けの善行ではこの思い出は作れません。人の為に真心から自然に行った行為のみ納得の行く思い出に変わっていってくれます。
さて、私は今日いくつ納得のいく思い出が作れたかなぁ?

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:34| Comment(4) | お釈迦様

2009年03月24日

お釈迦様の教え

○ 人は人に与えた喜び、悲しみだけをもってあの世に逝くのだ・・・釈迦

釈迦は来世のために今、世の中に善い事をたくさんして功徳を積めと説かれています。

○ 人間の修行とは、他人に喜びを与えることである

○ 心を作るのは言葉、言葉は心のあらわれ

  人の心を楽にする言葉をいつも心がけて使うことが大切です

○ 心を磨くとは、周囲に感謝し、人に喜ばれる存在になる。

○ 心とからだにいいことをしよう


★ 身体にいい事(暴飲・暴食に気をつける。禁煙・適度な運動・バランスのいい食事・休養・など)

★ 心にいい事(プラス思考・ストレスを残さない・皆さんに喜んでもらえることをする。
正しい行い・正しい言葉使い・苦難を感謝の心でうけとめる等)

★ 仏心(魂)が一番喜ぶ心とは・・・・慈悲の心(他に対する思いやりの心)感謝の心など。
 
★ 仏心(魂)が一番嫌う心とは・・・・欲望・怒り・愚痴(道理をわきまえない愚かな心の事)

◎ 仏心とは、本来一切の衆生(しゅじょう)に本来備わっている仏性のことで、自分のことはさておいても、世のため人のためにつくそうという心です。自分を中心とするから苦しむのです。
仏心に目覚めれば苦労も生き甲斐に変わるのです。

★ 衆生(しゅじょう)とは、この世に生を受けたもの全てを意味する仏教用語。特に、業の深き人間を指すことが多い。

◎思うままにならないことを思うままにしようとすると、四苦八苦 になるわけですよ。思うままにならないことを思うままにしようとしなければ、それなりに 楽しく生きる 方法はあるわけです。
(立花敏伸氏HP著者:ひろ さちや こころが軽くなる御仏の智恵 より)


お釈迦様は多くの教えを説きましたが、ここに書かれた事は普段私たちが生活していく中で、心がけ一つで守っていけることです。一回しかない一生を生きるのなら、私はできるだけより良く生きたいと思っています。誰もたった一回しかない人生をより悪く生きたいとは本心では思わないでしょう。
だったらより良く生きましょうよ。今、心が曇って欲に負けて「悪いことしているな〜」と言う自覚があればそれは良いことです。心がけ一つでゴロッと良くなりますから。

明日からは、ここに書かれた教えを一つ一つ見て行きたいと思います。(つづく)

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:08| Comment(4) | お釈迦様

2009年03月23日

超能力?

仏教では超能力のことを「法力」と言います。弘法大師など色々な超能力を物語る逸話も日本には結構あります。人間はどうもこの手の能力には弱いみたいですね。やはり憧れなどがあるからでしょう。特に心が弱っている時は超自然的なものにすがりたい気持ちになるものです。

確かに、病気や怪我を治す力は人間にあるみたいです。私も自己紹介に書いたようにこのような能力があります。国立大学でのこの類の能力のテストや測定にも協力しています。日本語で治療のことを「手当て」と言うのも昔このようにして人の不具合を治していたのでしょう。

しかし、このような能力は人の為に使うもので自分が得するために使うものではありません。世の中には結構こういう事を売り物にしておられる方も居ますが私は間違っていると思います。私も当初は、自分が何か特別な人間のように思えて、自己顕示欲の道具にしていた時期もありました。でも、禅の修行を続けるうちに自分の間違いに気付き大いに反省したものです。

禅で養うのは「眼力」と「道力」です。「眼力」とは真実を見極める力。「道力」とは正しい行いを実行する力です。私はちっぽけな超能力などではなく、本当に「衆生無辺誓願度」、困った人に尽くせるのは「眼力」であり「道力」であると気付きました。いくら「法力」、超能力があっても「眼力」と「道力」には遠く及びませんね。

神話ではなく、実際の歴史の中で一人の人間の超能力が大きく人々に貢献したという事実は私の知る限りありません。歴史を作ってきたのは人々の「思い」です。お釈迦様もそのような能力があったみたいですが、こんなものは余り重要ではないと言っておられます。まあ、基本的には「どうでもよい」と。

孫悟空が自分の超能力を自慢して、雲に乗って果てしない所まで飛んでいき、雲から突き出ている柱に自分の名前を書いたら、実はお釈迦様の中指だったという話を知っている方も多くおられるでしょう。結局その程度のものなのですね。

不安な時代だからこそ「眼力」と「道力」を各々がそれなりに鍛えていかなければいけないと思いますね。たとえ超自然的な能力があったとしても、人の「善の心」には遠く及ばないのです。人の心には計り知れないパワーが秘められています。早くそれに気付いて信じることです。困っている人が居れば、自分ができる事をする。一人の人を助ける方が、超能力をひけらかしているより、よほど尊いのです。やはり鍛え抜かれた「眼力」と「道力」に勝る超能力は無いみたいですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:49| Comment(2) | 人間の煩悩

2009年03月22日

お経を読む

般若心経というお経はもっとも知られているお経でしょう。「般若心経を唱えていると心が落ち着く。」とか「不思議な力が有る。」とかよく聞きます。でも、その意味を現代語でよく理解している人は少ないかもしれません。「ちょっと訳が分からないところもあるけど、ありがたうそうなので唱えよう。」中には全くその意味を知らず、何しろありがたいので唱えるという人も居るでしょう。

私はそれはそれでもいいと思っています。しかし、これが現代文に訳されて、例えば「弟子の捨利子さん、五感で人間が感じているものは実は空なんだよ。そんなもんに騙されちゃいけないよ。人間にはその内なるところに素晴らしいものを持っているのだから、それを十分発揮して幸せになりましょうね。」と訳されたりすると「何だ、そんなことか。」と有難みが急に薄れてきたりします。

何か難しそうで、どこか神秘的なところを残しておかないと有難みが湧かないのです。人は神秘的なものに惹かれますね。

でも、よく考えてください。御釈迦様は悟りを得たと確信してから、インドの貧しい村々を回ってその教えを説いていきました。そして、それを聞いた人々は「なるほどそういうことかい。」と納得して帰依していったのですね。歴史的事実として、その当時の貧しい村々で教育も受けていない人達が納得するように説いたのだから、その内容が難しいわけが無いと思います。

その説いた話が、弟子たちによって書きとめられて、それが中国に渡って漢字に訳されて、それが日本に渡って日本の古文に訳されていくうちにえらく難解な内容のお経になって、学者でもよく判らないということになってしまったのですね。そして、お経などその判らないところが何となく神秘的で、もっと神秘的な雰囲気をかもしだすお堂で、立派な袈裟を着たお坊さんが何人も一緒に読経されると「何かわけは判らんけど有り難い!」という風になるのです。

しかし元々は2500年前のインドの貧しい農民に説かれた内容ですから、やはりシンプルに考えた方が、もしくはシンプルに感じた方が良いのではないかと思います。まあ、神秘的でないとありがたみが無いから困るという人も中にはいるでしょうから、それはそれでその人達には良いのではないかと思います。

臨済禅では「神秘を語らず、迷信を説かず。」とはっきり言っています。「神秘や迷信で人を惑わすな!」と。「自分で坐禅してお釈迦さんの言っている真理を自分で確認しろ!」という事ですね。知識でわかるというような生易しいものでは無いのです。私は自分が実際に禅をやってみて「なるほど!」と思えます。だから私にはこっちの方が良いですね。

人それぞれの生き方はあると思います。私は何でもかんでも科学的に解明しなければだめとも思いませんが、神秘的なことを追い求めて訳がわからんままに死ぬのもやっぱり嫌だなと思います。自分ができることはやろうと思えばできるのだから、やっぱり禅をやりながら人生を過ごしたいですね。

ただ、皆さんに「禅をしろ」を言っているわけではありません。できる人はすれば良いだけの話です。しかし、心が弱った時に神秘的なものにすがりたいと思うのは分からないでもありません。でも、世の中にはそれに付け込んでもっともらしい雰囲気をかもしだしながらごまかしをする人間も多いので、やはりお釈迦さんが説いた「自燈明、法燈明」です。自分を拠り所に、仏法を拠り所に生きて行った方が間違いは無いみたいですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 11:04| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月20日

斎尽きて魯現る

"斉(さい)" という国を行きつくして 「もう道がない」。
ところが、行きつくしたと思えばさらにその先に
"魯(ろ)" という国が現れた。
行きづまったのは自分の知 (あたま) であり 知 (あたま) を捨てて
虚 (から) になれば道は無限に続く。
虚であればそれに応じて知恵は無限に変化して出てくる。
行き先は無限にあるという事である。

長い人生誰しも大変な試練を迎える事がある。
そんな時このまま行くとこの先どうなるのか不安になる事がある。
誰もが大なり小なり経験する事だと思う。

戦国の武将武田信玄は、この戦いは無謀と家来達が止めるのも聞かず
「物は定りて定らぬものなり」と言って戦いに挑(いど)み
勝利を収めたという。
先の事は分からないのである。

仏教では右に行くか、左に行くか迷ったら「サイコロを転がして決めよ」
というのがある。 困難な道も良し、平坦な道も良し。という意味だと思う。
自分の心の持ち方次第ですべて 吉 とする事が出来ると思う。

人間成長する上で苦しい体験は必要である。 大切なのは、
とり越し苦労をせず「何があっても平気で生き抜くぞ」という勇気と「災いを転じて福とする」という精神を持つ事ではないか。


山頭火の言葉に
「雨が降ったら傘さして、傘がなかったらぬれて行く。
そんな人生がちょうどいい」
大変好きな言葉の一つである。
人生「ケセラセラなるように成る」と笑って生きて行きたいと思う。 立花敏伸氏HPより

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:34| Comment(2) | 人生を楽に過ごす方法

2009年03月19日

自分は愚かだ、未熟だと認める

人が自分は愚かだと悟るとそれは賢者である。
人が自分は人より優れていると思っている間は愚者である。

私は三十代で大手外資系企業の社長になり、家や高級車を購入して海外リゾートで休暇を過ごしていました。自分は優れた人間と人と比べることばかりしていました。

四十三才で奈落の底に突き落とされ、底辺を這い回るうちに人の情けを知り、人の悔しさ、苦しさ、悲しさを知り、こんな傲慢だった自分に情けをかけてくれる人がいることを知りました。

禅の道に入り、正しい生き方を聞き、判っていても顔を出すプライドに苦しみ苦しみ坐禅をする。道場で叱られ叱られ坐禅をする。そのうち坐禅で自分の愚かさを知りました。

自分が愚かであると知った時、私は始めて心が満たされる思いがしました。決して社長をしながら得意満面の時には感じなかった満たされる思い。そして、肩から力が抜け重い荷物を降ろしたような気持ちよさ。

自分が愚かだと心から認めると、人や世間と比べることも無くなり、競うことも無く、そしりを受けても気にならず、腹が立つことも無い。ただ、坐禅をして、自分ができる仕事を一生懸命やり、困った人が居れば力になる。

ただそれだけの人生の何と楽しい事か。何と穏やかなことか。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:46| Comment(3) | 人生を楽に過ごす方法

2009年03月18日

自分を作らない

誰でも人に良く思われたいものです。小さな子供は特にそうです。小さな子供は親、特に母親に良く思われたいのです。だから最初は親の言うとおりに良い子になろうとします。

これが自分をよく見せるために自分を作り出す始まりです。小さな子供は仕方が無いですが、大人になったらもう一度考え直した方が良いと思います。私達は学校に行った時、社会に出た時、敏感に自分が所属する集団が何を求めているかを感じ取ります。そして、それに自分を合わせていこうと無意識に思うのです。合わないとグレたりします。

でも、そうして自分を作っていく間に本当の自分と作り上げた自分のイメージとの間にギャップが生まれてきます。英語ではセルフイメージと言っていますが、「周りから見られた時の自分を作り出し、それを保とう」という意識が働きだします。

そうすると、どんどんギャップが大きくなって、そのうち本当の自分が作り出された自分のイメージの奴隷になっていくのです。例えば「私はハイソよ!」というイメージを作ったとします。そうしたら本当は貧しかった子供の頃に食べた「たこ焼」が食べたいのだけど、イタリアンで「ピザ」にするみたいな行動を取りだします。「たこ焼なんかとんでもない。私のイメージが崩れる!」となるわけです。プライドなどは、結局はこういう類のものです。

これを意識的にやっている間はかわいいのですが、無意識にやりだすと病は深刻です。「いったい本当の自分とは何か?」というのが判らなくなります。そして、自分が作り出した自分のイメージの奴隷のまま一生を終わることになります。

可哀想な話ですね。いったい本当の自分とは何だというのが分からず奴隷の人生を生きていくのです。中には自分の作り出したイメージの自分と現実の自分とのギャップが大きすぎて、うつになっていく人もいます。

禅では本当の自分の事を「本来の面目」と表現します。臨済禅に入門すると最初の「公案」が「父母未生以前における本来の面目は如何?」です。公案とは老師との禅問答の問題みたいなものです。「お前のお父さんお母さんが生まれる前のお前はいったい何だったんだー!」という意味です。これを一生懸命坐禅しながら工夫して見つけていくのです。

本当の自分を見つけると、如何に今まで自分は自分を作っていたのかがわかります。そして普段の生活があるがままの自分の生き方に近くなっていきます。これでやっと自分が自分の主人公になれるわけです。

やはりあるがまま生きる方が楽ですね。私はそう思いました。一度皆さんも本当の自分とは何かを心の中で工夫してみてはどうでしょう。作り物の自分ではつまらん話ですよ。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:47| Comment(2) | 人生を楽に過ごす方法