2009年03月14日

自分の使命

自分の使命を全く顧みることなく、欲の道にはずれると、
そのはずれた距離に応じて、いろいろと、苦と、虚しさに捕らわれる。

もし、いらいらが続き、いつも虚しい時は、自分の持って生まれた意味や使命や、
この目的から、遠くはずれていることを意味している。自分の使命を果たしているとき、
顔は生き生きとし、毎日は充実感に満たされ、たくさんの人の応援に出合う。
これだけはいえる。今世は、社長になり、また、お金持ちになり、自分の都合にだけ
生きるために、人としての生命を神から与えられたのではない。威張るために、
自己の勢力を張るために、人を苦しめても、自分だけはいい思いをするために
この世に来たのではないと断言できる。

私のこの小さな、九州の片田舎町に、そのことに気づき、独り歩む男性を知っている。
まだ若く、手さぐりだが郵政公社に勤め、それまでに、中学高校といつも失敗し、
笑われながら、人に喜ばれることを目指し、高校で誰も立候補しない生徒会長を自ら
選び、今も、山村に一人住むお年寄りを、暇にまかせて慰問し、声をかけ、さらに自分に
出来ることはないかと、手さぐりで素朴に生きている姿は、感動する。その若い人の、
周りに勇気を与え、純朴だが歩む力強さに、拍手を送ってしまう。
そういう人にめぐり会えて私は幸せである。 

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より 立花敏伸氏HPより

私は人の使命は色々な過ちを犯しながらも、ついには人々のために尽くせる自分になることだと思います。その道から外れるといくら金や権力を握っても最後は悲しい、寂しい人生を送ることになります。そのような例は日本史、世界史にいっぱいあります。
だから、一日一日精進して、格好だけではなく本当に人のために尽くせる自分になれるよう願っていればいいのですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 00:18| Comment(0) | 暗いままの明るさに生きよ

2009年02月03日

川の流れに身を任せ

仏の教えは中道の教えです。中道とは、極端に走らずに、
ゆったりとした道を歩むことです。寝食を忘れて、
死にもの狂いになって修行をするのは、あまりにも極端すぎます。
かといって、怠けているのは駄目です。そういう極端を避けるのが中道です。
中道というものは、楽しみながら歩むことだといえるでしょう。
たとえば、山を登るのも、あせらずゆっくりと景色を楽しみながら、
山にはえている植物を観察し、 昆虫を眺めながら登るのが中道です。
ここに一本の材木が大きな川に流れ出ました。この材木が両岸に近づかず、
沈むことなく、人にも取られず、渦に巻き込まれないなら、
ついには海に流れ入ります。この材木のたとえのように、物事にとらわれず、
「信は任すなり」 の境地で、人生の流れに身を任せて生きるならば、
苦しみや迷いのない清らかな中道の生活を送ることになり、
遂には彼岸の地 浄土(仏界)に到達することでしょう。
とらわれないとは、執着しないこと、握りしめないことです。

執着心を起こすと初めの内は楽しいようでも、たちまち迷いの生活となり
様々な苦しみをもたらします。しかし、此の世の中の人々は身分や富の多少にかかわらず、金銭のことばかりにこだわり、
お金がなければ無いで苦しみ、あればあるで苦しみ、心が安まるときがありません。お金のために自殺する人もいます。自殺しなくとも、
生きるとは死への旅なのです。…………
人生はレンタル、私達のすべては仏様から無料で預かっているだけです。
身も心も、生きている時間さえも。…………
とらわれない心は、仏の教えを信じることにより授けられます。
悲しみが有れば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがあります。
悲しみも喜びも越えたところが、とらわれのない世界です。
★「 信は任すなり」 とは、

    己を捨てて神仏にすべてをお任せするという意味である。
                 立花敏伸氏からのお手紙より

「人事を尽くして天命を待つ」。ただ、何もしないで神仏にお祈りしても何も起こらないでしょうね。自分がしなければならないことは一生懸命する。結果は天に任せるより仕方がないと思います。もし思い通りの結果が出なくても、自分のやり方に何か十分でなかったことがあるのではないかと見直して、改善するだけです。一々落ち込む事はありません。落ち込んで結果がよくなるのであれば、どうぞ落ち込んでください。しかし、そんな事は決して無いので、落ち込んでいる閑があれば、自分の感情を入れずに改善に改善を重ねることです。

どうせいつかは死ぬのです。私は常々、「どうせ死ぬ者同士ならば人間もっと仲良くしたらいいのに」と思います。皆さん、生きていられる時間をもっとプラスに使いましょうや。

合掌
仏光

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posted by 仏光さん at 22:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 暗いままの明るさに生きよ

2009年01月31日

暗いままの明るさに生きよ

般若心経の教えの一つに 「暗いままの明るさに生きよ」 という教えがあります。

主婦であるK子さんの話をしましょう。
毎週開かれている ある講座に いつも影のごとく来て、影のごとく去っていく女性でしたが ある時こんなことを講師に、問い詰めてきました。
「先生、私は死にたくなりました。もう生きていても目の前が真っ暗で生きていくことが辛いんです。 こんな状態でも死んではいけないんでしょうか」
K子さんは、子宮ガンと誤診されて宿していた子供を堕ろしたうえに、抗がん剤の副作用で目が不自由となり、髪の毛も抜け、余命もそれほどない とのことでした。しかも夫がよく愛してくれるだけに、彼に自分の惨めな姿を見せたくない、と思いつめて自殺を考え始めたようでした。
先生が「死んではなにもなりませんよ」と言うと、
彼女は「なぜ死を選んではいけないのですか書いてください、ここに理由を書いてください!」と先生の目の前に紙を突きつけて迫ってきたのです。
先生は咄嗟(とっさ)のことで何を書こうか迷った末、詠み人知らずの古い俳句を書きました。

 磯までは海女も蓑(みの)着る時雨かな

彼女はこの俳句をじっと見詰めていました。先生は次のように説明したのです。
海女さんは海へ入って貝を採るのが仕事ですから、体は濡れてしまうのです。
しかし、どうせ濡れると分かっていても雨の日は海辺まで蓑を着て、自分の体を大切にするのです。厳しい仕事が待っているからこそ、ぎりぎりまで体をいたわ り守ろうとしているのです。
「あなたも自分の体を大切にして、最後のその日まで一生懸命に生きなくちゃだめだ」
そう言うと、K子さんは声を上げて泣き始め「残酷です」と、より一層大きな声を上げて泣き崩れました。ところが、 K子さんはその俳句を何日も見続け、読みつづけたそうです。やがて彼女が再び訪ねてきて、
「私、九十いくつかの寄る辺のない、寝たきり老人のヘルパーになろうと思うんですけど、どうでしょうか?」
と、相談してきたのです。聞けば、そのご老人も前途を悲観して自殺を企てたそうですが、未遂だったのです。
「生きている間は、自分にできると思うことはどんな小さなことでもやってみる事です」
と、先生はK子さんにヘルパーになることを勧めました。
彼女は五十代で、相手のご老人は九〇歳を超えているのですから、親子ほどの 年齢の開きがあります。死を決意したほどのご老人ですから、生活態度は暗いのです。彼女が話しかけてもなにしに来た、というすげない態度でとりつく島がありません。でもK子さんは根気よく通い続けて助言しました。
やがて半年ほどして年が明けて正月が来ました。すると、その寝たきり老人から 年賀状が届いたのです。彼女はよほど嬉しかったのでしょう、先生に見せに来たそうです。ご老人は不自由な片手で絵を描き、しかも一言 書き添えていました。

あなたのお陰でやっと 「おめでとう」 が言えるようになりました ありがとう

K子さんも、この年賀状を機にたいへん明るくなったのです。生きていればいろんなことがあります。何があっても 人生を悲観して自殺を企てるなどとんでもないことです。

どうにもならんことはどうにもならんのだ。
それより今の自分になにができるのだろうか。

逆境にいるときに、こんな問いかけを自分自身に投げかけてみると、意外に「やるべきこと」が見つかり、明るさが見えてくるものなのです。

立花敏伸氏HPより


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posted by 仏光さん at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 暗いままの明るさに生きよ