2009年01月28日

災難にあう時は

良寛さんも実在の禅僧ですが、その逸話にはほのぼのしたものがいつも伝わってきます。村の人からお米やお金を貰う托鉢に出ても、機織の音が聞こえてくる家は、仕事の邪魔をしてはいけないと黙って通り過ぎたりしていました。家の人が人の気配に気づいて「もしや良寛さんでは・・・」と外に出てみると歩いて去っていく良寛さんがいます。「良寛さーん!」と追いかけてお布施をしようとすると「邪魔をしてごめんなさい。ごめんなさい!」と言いながら走り去っていくのです。本当に人の心の境涯としては高い高いところに居られたのだと思います。

さて、その良寛さんに親戚の人が「災難に逢わない、何かいい方法がありますか?」と手紙で尋ねてきました。すると良寛さんから返信が来て次のようなことが書いてありました。

「災難にあうときは災難にあうがよく候 

死ぬときは死ぬがよく候 

これはこれ災難をまぬがれる妙法にて候」


災難に逢ったら、災難に逢えばいいのです。
死ぬ時がきたら、死ねばいいのです。
これはこれで災難から逃れる良い方法ですよ。
と、言っておられます。

なるほどこれはひつの見方だと思います。何か自分に都合が悪いことが起こると普通じたばたじたばた、それからなんとか逃れようとあくせくします。しかし、このじたばたしていることこそ「苦」なのです。もともと災難とは自分の心で「これは災難だ」と認識した瞬間から自分にとって災難になるのです。

災難とは自分にとって都合の悪いことですが、宇宙単位で見ると何も貴方のため、私のためだけに宇宙や地球が存在しているわけではありません。地震や台風などの現象はただそこで起こっているのです。じたばたせずにその場で自分ができることを最大限すればいいのです。それ以外に何もできませんから。オロオロ嘆き悲しんで何もしないよりかはマシです。

私は若い頃世界中を飛び回っていましたので、色んな目に逢いました。内戦に巻き込まれて銃弾が飛び交う中を逃げ回ったり、イスラエル空軍に爆撃されたり、サハラ砂漠の中で乗っていた自動車が故障して死にかけたり、憲兵隊に追いかけられたり、地雷原の中に迷い込んだり、乗っていた飛行機のエンジンが火を噴いて着陸事故にあったり、ショットガンで尻を撃たれたり、何回も死にそうな目に逢いました。

実際そういう目に逢うと、ただ状況に必死に対応するだけで「災難だ」なんて考えている余裕はありません。「災難」とは有る程度時間の余裕があって「これから大変なことになるのではないか」とか「死ぬかもしれない」とか「どうしよう、どうしよう」と色々不安に思ったり悩んだりしている中に有るのではないでしょうか。思わなければ「災難」などは存在しないのです。

我々はどうせ生まれた瞬間からいつか死ぬ事はもう決まっているわけです。何も今さら慌てることはたぶん無いのでしょうね。

合掌
仏光


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー


posted by 仏光さん at 00:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 良寛さん

2009年01月27日

死する事生きるが如し

良寛さんのところに、ある夜のこと一人の泥棒がしのびこんだ。
部屋中をごそごそ探しまわっているが何も見つからない様子。
良寛は、始めから目を覚ましていたが、起きたら泥棒にとって都合が悪かろうと
知らん顔をしている。泥棒は、何にも盗るものがないと気がついて、
「何だ何だ。この家には何もありゃしないじやないか。全くのくたびれ損だわい」と
つぶやいた。そこで良寛さん。ごそごそ起き出して、
「これこれ泥棒さん。まことにすまんことじゃがこの家には、
わしが寝ているこのふとんしかないのじゃ。これでよかったら持って行きなさい。」
びっくりした泥棒は、それでもふとんをまるめて持って行こうとした。
「誰か人に見られたら困るだろう。さあわしが戸を開けてあげるから、早く帰りなさい。
今度来る時までには、何かよいものを探しておくからね」
泥棒を送り出したあと、ふと空を見上げると実にきれいな月が出ている。
そこで口に出たのが、
 盗人の とり残しけり 秋の月
人間は何か執着するものを持っているからこそ、それを盗まれるのが
恐ろしいのである。物があれば物、金があれば金、それを盗まれるのが恐ろしい。
特に生命をとられるのが、最も恐ろしいのである。
ところが、執着すべき何ものをも持たぬものにとっては、盗られるものもないわけで、
恐怖心が起こるわけがない。すなわち、『死する事生きるが如し』 と徹底できた人には、
死の危険すら恐怖の対象ではなくなるわけである。

  むけいげ
とは、まさに何ものにも執着する事がない状態であり、
したがって、『無恐怖』であるのは、まことに当然なことであろう。
永遠でないものをいかにも永遠であるかのように錯覚したり、
苦しみの原因であるのにいかにも楽しみであると感じたり、
わがものなどあるはずがないのに我が物と執着する
─こういった誤った考えから離れることができるのは、
まさに正しい智慧、すなわち、『般若』によるのである。

宮本武蔵は、一生のうちで、一度も剣術の試合で負けたことがなかった人として
有名である。だが、生涯に一度だけ、勝つことの出来なかった相手と対したことがある。
それは、まだ未熟な一剣士であった。だがその若者は武蔵と剣を交えた時、
しずかにすーっと眼を閉じてしまった。
身体中スキだらけでどこからでも容易に打ち込めそうにみえる。
ところが、いくら時間が経過しても、武蔵はどうしても打ち込むことが出来ない。
なぜなら、相手ははじめから死ぬことを覚悟しているのである。
そして、心を相手の剣のみに集中し、もし切られたら、その瞬間、思い切り剣を
ふりおろすことだけを考えている。
剣術の場合、自分が切られた瞬間だけは、間違いなく相手は自分の身近にいる。
したがって、自分は殺されても、相手の身体のどこかに自分の剣を触れさせることは
できるはずだ。
すなわち、『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり』 と言われるように、
死を恐れない相手に対しては、いかに剣道の達人でも、自分が生き続けたいと
願っている場合には、たとえ相手がいくら未熟であっても、無傷で勝つことは
できないのだ。それを見極めた時、武蔵は、静かに剣を引いて立ち去ったと言う。
死を恐れなくなった時、世の中のすべては、それまでとは完全に別の価値を
持ったものになるのであろう。
経中に出てくる 『涅槃』(ねはん) という言葉であるが『入涅槃』という言葉があって、
お釈迦様が亡くなった ことを意味するようになったのでいかにも、死ぬことを
指しているように受け取られ勝ちである。実は、ニルバーナという梵語の音写である
この言葉の意味は 吹き消した状態ということで
あらゆる煩悩の火が吹き消されたこと を意味する。

すなわち、われわれが死を恐れるのは、死と生とを区別し、生はのぞましく 
死はのぞましくないと考えるからである。 『死すること生きるが如し』という
境地に到達すれば、生と死とには何の差別もないのである。
それは、こちら側に煩悩の対象であるこの世の存在や現象に執着する欲望が
なくなったからでそれこそを『涅槃』とよぶのである。
そしてこの涅槃が、仏教が目的としている最高の境地であり、その状態に
達したものを『仏陀』とよぶ。仏教というと、いかにも複雑難解な宗教と
おもわれ勝ちだが、それは手段や実践法の違いがそうであるだけで、
最終目標は、この仏陀になることであるということだけは忘れないで欲しい。 立花敏伸氏HPより


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 00:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 良寛さん