2009年04月11日

自燈明、法燈明

これもまた、お釈迦さまが日々、さまざまな場で幾度となく口にされている言葉である。
「自灯明 (じとうみょう) 法灯明 (ほうとうみよう)」 (自帰依・法帰依) の教えといい、
法はいまでいう法律の法ではなく、仏の教え のこと。

そして、続けていわれたのが、 「この世において移ろい変らぬものは何一つない」 という事。
つまり、この世は無常ということだ。だから
「みずからを拠(よ)りどころとし、他を拠(よ)りどころとしてはいけない」といわれたのだ。
そして 「仏の教えを拠(よ)りどころにしなさい」と。

みずからを拠(よ)りどころとするためには、みずからが依(よ)って立たない心構えが必要だ。
といっても 「自分がいちばん」 というわけではないのはもちろんである。
むずかしいことではあるが、地に足をつけ、すくっと立っていたい。

お釈迦さまは 「頼りになるのは自分であるぞ」 と教えられました。
他人を拠り所にしたのでは、その他人から見放されれば、
あるいは、その人がいなくなってしまえば、途方にくれるほかありません。
あくまでも 自分で立ち、自分で歩まなければいけないよ、と諭(さと)されたのです。

法灯明 とは 「法を灯明とし、法を拠(よ)り所としなさい」 という意味です。
自分は何を拠(よ)り所にして生きればいいのか。「法」よりほかはない。
「真理」よりほかにはない。他を拠り所にしてはならないよ、とお教えになったのです。

法 とはお釈迦さまの教えであり、仏の教え、即ち 仏教という真理 を意味します。(立花敏伸氏HPより)

心が弱ると人や他を頼りにしたくなるものです。しかし、それでは頼りにしている人や会社がこけると自分もこけることになります。本来は自分自身を頼りにしなければなりません。それを深く自覚して自分ができる事をこつこつ行うことが大地に足がついた、裸一貫になっても大丈夫な自分を作り上げます。

でも、それだけでは独りよがりになる可能性も有るので、お釈迦様は真理をよりどころにせよと言われたのです。何が真理なのか正しい教えを受けることも大事ですね。私は釈迦の教えがなるほど正しいと思っていますよ。「千里の道も一歩から」まず自分のできる範囲から自燈明、法燈明を始めましょう。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:14| Comment(4) | お釈迦様

2009年03月28日

心を磨くとは、周囲に感謝し、人に喜ばれる存在になる。(釈迦)

私達は一日に心の底から何回感謝しているでしょう。このように世の中が不景気なってくると、よく愚痴を言っている人は見かけますが、感謝している人を見るのが少なくなったような気がします。

白隠禅師が作った坐禅和讃に、「六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏みそえて、いつか生死を離るべき」という一段があります。

要するに「愚痴を言っている間はこの世の地獄だよ。そんなことは人生が終わる前に早く止めようよ。」と言っているのですね。私もそう思います。

愚痴を言って状況がよくなるなら、朝から晩まで愚痴を言い続けたらいいのですが、必ず状況はもっと悪くなります。でも愚痴を言いたくなる心境も判らないでもありません。

私はこう思ったらいいと思います。自分に試練が与えられると自分を鍛えるために天が用意してくれた心の授業なのだと。人生がうまく行かないと悲観的な気持ちになりますが、授業だと思うと「さあさあ、天は次に何を私に教えようとしているのかな?」と思えます。自分で問題を解くのです。人に助けてもらって答えが間違っていると人を責める気持ちが湧いてきますから。それがまた愚痴になります。

こうなると試練も自分を鍛えて育ててくれるので感謝です。順風満帆の中で人格なんて絶対に育ちませんから。

がんの末期になると普通に息をして食べて生きていることだけで感謝の念が湧いて来ます。がんで去年亡くなった私の母親が言っていました。「収入が減ったので腹が立つ!」なんてそのような状態では思うことは絶対ありません。普通に生きているだけでありがたいのです。思い通りに行こうと行くまいと、何があっても普通に生きていればやはり感謝でしょうね。

考えてみてください。愚痴を言って一生暮らすのと、感謝の心で一生暮らすのと、自分の一生でどちらが良いか。順風満帆では何でもうまく行くのが当たり前で、感謝の念など湧きませんよ。何に感謝したら判らない人の特効薬は死ぬほど苦労することです。普通に生きていることが何よりもありがたくなります。

日常を感謝の心で暮らそうと思うと、やはり人に尽くすことですね。そうすると人も貴方に感謝します。感謝と感謝が合掌しあっているようなものです。

私は、多分これを極楽というのだと思います。それなら自分で極楽を作ることができますね。困った人がいれば自分ができる範囲で助けて、人に感謝してもらったら、感謝してくれる相手の心に感謝すればいいのですから。「心を磨く」とはこういう事でしょうね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 20:43| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月27日

心を作るのは言葉、言葉は心のあらわれ (釈迦)

言葉と心

言語には、すこぶる強烈な暗示力が固有されている。
だから積極的人生の建設を志す者は
消極的な言語をたとえ戯れにも口にしてはならないのである。

具合が悪いときに具合が悪いといったら
具合が悪いのが治るかい?


正しい心を作る言葉の大切さ


私は今後かりそめにも、わが舌に悪を語らせまい。
否、一々わが言葉に注意しよう。
同時に今後私は、もはや自分の境遇や仕事を、消極的な言語や、悲観的な言葉で、批判するような言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌剌たる勇気と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。

これらは明治の哲学者、中村天風の言葉で、私の「心のトレーニングマニュアル」に取り入れています。私はこれを実践しています。腹が立つこともあるし、悲しく落ち込む時も人間ならあります。しかし、自分の気分の赴くままにマイナスの言葉を発していても決して状況は良くならないのです。

だから次の言葉をよーく読んで落ち込んだ時には思い出してください。

自分は力だ

私は力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、
否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
そうだ!
強い、強い、力の結晶だ。


笑うこと

さあ今日から、努めて笑うことにしましょうや。
特に悲しいことや辛いことがあったら、
いつにもまして笑ってごらん。
悲しいこと、辛いことのほうから逃げていくから・・・・・

私はどれほどこれらの言葉で救われたことか・・・。天風先生に大感謝です。
さあ、皆さんも落ち込んでいる閑があったら笑いましょうや。笑っていれば必ず状況は好転します。辛ければ辛いほど、悲しければ悲しいほど、苦しければ苦しいほど笑うのですよ。私達は今どのような境遇にいる人でも本来「力の結晶」なのです。それに早く気づきましょうよ。どんな苦難にも打ち克つ力が本当に湧いてきますよ!

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:49| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月26日

人間の修行とは、他人に喜びを与えることである (釈迦)

私達はよく心を磨くとか人格を磨くとか言いますが、果たして心や人格を磨くとはどういうことなのでしょう。「真に立派な人」というのは、資産をたくさん持っている人や、社会的肩書きの素晴らしい人、自分の良い行いを宣伝している人を指す事で無い事は確かですね。それは今までの私のブログを見て頂いたら良く判ると思います。

世の中一般の人間は人生の主な目標を物質的に豊かになることに置き、それがある程度叶えられると地位や名誉を一生涯をかけて求めていきます。中には最初からどれもこれもみんな欲しいという強欲な人間もいます。

お釈迦様は悟りを開いた後、インドの村々を説法をして回りました。多くの人がお釈迦様に帰依していきましたが、その中には王族諸侯も多くいました。そして、お釈迦様に土地や大きな寺を与えようとしました。

「真理を説くのに伽藍殿堂は要らぬ!」と、お釈迦様は一切このような申し出を断りました。自分の修行のため、また大衆に道を説くのに立派な寺など要らないということです。そして自ら数名の弟子と共に田舎の村々を回り説法をしていきました。説法の旅の途中、ある村で病に倒れ亡くなっています。悟りを開いてからは、仏道を何処までも大衆に説いて回る事を自らの修行としていたのです。

お釈迦様の説法で多くの人の心が救われました。人生で何が一番大事なのかを説法を聞いて人々が気づき、自らの心、人生を救っていったのです。私はこのように人に真の喜びを与えることができるお釈迦様こそ、本当に立派な人格者であり、磨き抜かれた心の持ち主であると思います。

私は、もちろんお釈迦様のような説法はできませんし、その人格も足元にも及びません。ただ、人に喜んでもらえることはできると思っています。自分の周りで困っている人の助けになることはできると思います。それらを一つ一つ実践していって、私なりに自分の心を磨いていきたいと思います。それが人間として生まれた者の修行でしょうね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 20:55| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月25日

人生の終わりに何を持っていく?

人は人に与えた喜び、悲しみだけをもってあの世に逝くのだ・・・釈迦

人は皆、頭ではお金や家などの財産、社会的肩書きなどを死ぬ時に持っていけない事を知っています。でも、生きている間はそれらに執着し、それら財産を得るため、また守るために必死になります。分かっているのにやっちゃうのです。でも、もっともっとよく考えた方がいいと思いますよ。

ちょっと想像して下さい。もし、貴方が癌で余命を告知されて死の床に寝ていたとしましょう。いくら立派な家に居ても、いくら預金通帳の残高があってもそれが貴方にとってどれほどの意味が有るでしょうかね。

貴方は身体を横たえながら何を想うでしょう?死の床にあって「俺の家は何と立派なんだろう。」「預金通帳の残高は増えたかな!」なんて想う人は変人奇人の部類に入ると思います。

人間死ぬ時は家族との思い出、今までの人生の出来事、楽しかったこと、悲しかった事、嬉しかった事、子供の頃の事を想うのが普通です。

要するに人は死ぬ時にもし持って行けるものがあるとすれば、生きていた時の思い出しか無いのです。では、どの様な良い思い出を持って行きたいですか?自分が出世した思い出?金持ちになった思い出?

私は自分の行いで人に喜んでもらった思い出が、「自分はこの世に生まれて来た価値があった。自分は精一杯生きた!」と自分の人生に納得できる一番の思い出だと思います。結局人に尽くすことは自分のより良い人生に尽くすことになるのですね。

見せ掛けの善行ではこの思い出は作れません。人の為に真心から自然に行った行為のみ納得の行く思い出に変わっていってくれます。
さて、私は今日いくつ納得のいく思い出が作れたかなぁ?

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:34| Comment(4) | お釈迦様

2009年03月24日

お釈迦様の教え

○ 人は人に与えた喜び、悲しみだけをもってあの世に逝くのだ・・・釈迦

釈迦は来世のために今、世の中に善い事をたくさんして功徳を積めと説かれています。

○ 人間の修行とは、他人に喜びを与えることである

○ 心を作るのは言葉、言葉は心のあらわれ

  人の心を楽にする言葉をいつも心がけて使うことが大切です

○ 心を磨くとは、周囲に感謝し、人に喜ばれる存在になる。

○ 心とからだにいいことをしよう


★ 身体にいい事(暴飲・暴食に気をつける。禁煙・適度な運動・バランスのいい食事・休養・など)

★ 心にいい事(プラス思考・ストレスを残さない・皆さんに喜んでもらえることをする。
正しい行い・正しい言葉使い・苦難を感謝の心でうけとめる等)

★ 仏心(魂)が一番喜ぶ心とは・・・・慈悲の心(他に対する思いやりの心)感謝の心など。
 
★ 仏心(魂)が一番嫌う心とは・・・・欲望・怒り・愚痴(道理をわきまえない愚かな心の事)

◎ 仏心とは、本来一切の衆生(しゅじょう)に本来備わっている仏性のことで、自分のことはさておいても、世のため人のためにつくそうという心です。自分を中心とするから苦しむのです。
仏心に目覚めれば苦労も生き甲斐に変わるのです。

★ 衆生(しゅじょう)とは、この世に生を受けたもの全てを意味する仏教用語。特に、業の深き人間を指すことが多い。

◎思うままにならないことを思うままにしようとすると、四苦八苦 になるわけですよ。思うままにならないことを思うままにしようとしなければ、それなりに 楽しく生きる 方法はあるわけです。
(立花敏伸氏HP著者:ひろ さちや こころが軽くなる御仏の智恵 より)


お釈迦様は多くの教えを説きましたが、ここに書かれた事は普段私たちが生活していく中で、心がけ一つで守っていけることです。一回しかない一生を生きるのなら、私はできるだけより良く生きたいと思っています。誰もたった一回しかない人生をより悪く生きたいとは本心では思わないでしょう。
だったらより良く生きましょうよ。今、心が曇って欲に負けて「悪いことしているな〜」と言う自覚があればそれは良いことです。心がけ一つでゴロッと良くなりますから。

明日からは、ここに書かれた教えを一つ一つ見て行きたいと思います。(つづく)

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:08| Comment(4) | お釈迦様

2009年03月22日

お経を読む

般若心経というお経はもっとも知られているお経でしょう。「般若心経を唱えていると心が落ち着く。」とか「不思議な力が有る。」とかよく聞きます。でも、その意味を現代語でよく理解している人は少ないかもしれません。「ちょっと訳が分からないところもあるけど、ありがたうそうなので唱えよう。」中には全くその意味を知らず、何しろありがたいので唱えるという人も居るでしょう。

私はそれはそれでもいいと思っています。しかし、これが現代文に訳されて、例えば「弟子の捨利子さん、五感で人間が感じているものは実は空なんだよ。そんなもんに騙されちゃいけないよ。人間にはその内なるところに素晴らしいものを持っているのだから、それを十分発揮して幸せになりましょうね。」と訳されたりすると「何だ、そんなことか。」と有難みが急に薄れてきたりします。

何か難しそうで、どこか神秘的なところを残しておかないと有難みが湧かないのです。人は神秘的なものに惹かれますね。

でも、よく考えてください。御釈迦様は悟りを得たと確信してから、インドの貧しい村々を回ってその教えを説いていきました。そして、それを聞いた人々は「なるほどそういうことかい。」と納得して帰依していったのですね。歴史的事実として、その当時の貧しい村々で教育も受けていない人達が納得するように説いたのだから、その内容が難しいわけが無いと思います。

その説いた話が、弟子たちによって書きとめられて、それが中国に渡って漢字に訳されて、それが日本に渡って日本の古文に訳されていくうちにえらく難解な内容のお経になって、学者でもよく判らないということになってしまったのですね。そして、お経などその判らないところが何となく神秘的で、もっと神秘的な雰囲気をかもしだすお堂で、立派な袈裟を着たお坊さんが何人も一緒に読経されると「何かわけは判らんけど有り難い!」という風になるのです。

しかし元々は2500年前のインドの貧しい農民に説かれた内容ですから、やはりシンプルに考えた方が、もしくはシンプルに感じた方が良いのではないかと思います。まあ、神秘的でないとありがたみが無いから困るという人も中にはいるでしょうから、それはそれでその人達には良いのではないかと思います。

臨済禅では「神秘を語らず、迷信を説かず。」とはっきり言っています。「神秘や迷信で人を惑わすな!」と。「自分で坐禅してお釈迦さんの言っている真理を自分で確認しろ!」という事ですね。知識でわかるというような生易しいものでは無いのです。私は自分が実際に禅をやってみて「なるほど!」と思えます。だから私にはこっちの方が良いですね。

人それぞれの生き方はあると思います。私は何でもかんでも科学的に解明しなければだめとも思いませんが、神秘的なことを追い求めて訳がわからんままに死ぬのもやっぱり嫌だなと思います。自分ができることはやろうと思えばできるのだから、やっぱり禅をやりながら人生を過ごしたいですね。

ただ、皆さんに「禅をしろ」を言っているわけではありません。できる人はすれば良いだけの話です。しかし、心が弱った時に神秘的なものにすがりたいと思うのは分からないでもありません。でも、世の中にはそれに付け込んでもっともらしい雰囲気をかもしだしながらごまかしをする人間も多いので、やはりお釈迦さんが説いた「自燈明、法燈明」です。自分を拠り所に、仏法を拠り所に生きて行った方が間違いは無いみたいですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 11:04| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月16日

お釈迦様は何故仏祖なのか

ご存知のようにお釈迦様は仏祖です。仏教を創めたのがお釈迦様だから仏教の祖になるわけです。お釈迦様は実在の人物であった事はどうも確かです。後に色々な歴史、人々の願望から神のように神格化されていきましたが元々は生身の人間です。

私はお釈迦様が偉いと思うのは、まず「人生は苦である。」という真理を見極めた事。そして、その「苦」から逃れるには「こうしたら良いよ。」と苦しみから逃れる方法として坐禅を含めた「八正道」を見極めたことだと思います。詳しくは私のブログの「幸せに生きる八つの実践」を参照してください。http://gakunan-zen.sblo.jp/archives/20090310-1.html

お釈迦様はこれらの道を悟った後インド中を歩き回って人生の真理とその解決方法をあらゆる人に教えていきました。お釈迦様は「こうしたら良いのだよ。」と人々の苦しみを思うと教えざる得なかったのだと思います。苦しんでいる人々をどうしても救いたいと思う慈悲心ですね。

お釈迦様は亡くなる時に「これから私達はどうしたら良いでしょう?」と聞く弟子たちに「自燈明、法燈明」と答えられました。自燈明とは「自分自身を燈明とせよ。」要するに自分自身を頼りにせよということです。法燈明とは「釈迦が見極め教えた真理を燈明とせよ」という意味です。お釈迦様は「自分自身と真理を頼りとして生きていけ」と言われているのです。「真理」とは不変のものです。

人を頼りとせよ。世間の道徳を頼りとせよとは教えていません。まず、頼れるだけの自分自身を作っていかなければいけないし、釈迦の教えた真理を自分の物とする勉強も必要です。「修行は嫌いだけど、悟りは好き!」というわけにはやはりいかないのですね。

世間の道徳は世間とともに移り変わります。道徳というと「すごく確固たる正しい道」みたいに思われている場合もありますが、歴史ではそうではないことがはっきりしています。

世間では反道徳的な人が刑務所に入るのですが、昭和の時期に起こった太平洋戦争では、戦前、戦中、戦後に牢屋へ入った人は全部違う種類の人です。戦前、戦中は戦争や体制にに反対した人が牢屋に入ったし、戦後は戦争に賛成した人が牢屋に入っています。たかだか10年の間にこれだけコロコロ変わるのです。アメリカのテロ容疑者の刑務所もたぶん同じようなものでしょう。不変の真理と比べると、こんなにコロコロ変わるものを絶対的に頼りにする事はやはりできないのです。

私にとって「禅」はお釈迦様の教えを学びを実践する効率の良い教育システムです。禅を実践していくうちに自分にぶれない背骨ができていくような感じがします。お釈迦様の説いた真理を勉強して、実践していくと「なるほどなー!」とどうしても感心してしまうのです。

仏教の本やお経に書いてある事は文字からしても難しいのでうんざりします。このブログで少しでもお釈迦様の教えが分かりやすく伝われば幸いです。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:47| Comment(2) | お釈迦様

2009年03月10日

幸せに生きる8つの実践

お釈迦様は「人生は苦である」と見極められました。私は「なるほど真理だけど、それだけでは困るなぁ。もう生まれちゃっているんだから。」と正直思いました。それに対してお釈迦様は「これだけやれば人生ちゃんと生きられるよ」と言って8つの実践方法を教えています。つまりこれがお釈迦様が悟った「ちゃんと人生を生きる方法」なのです。この8つの実践方法を「八正道」と言います。それは次の通りです。

1. 「正見」・・・正しい見解
偏見や固定観念に固執せず原因と結果の関係を見極める。

2. 「正思推」・・・正しい考え
真実をありのままに正しく考える。

3. 「正語」・・・正しい言葉
うそ、間違ったこと、おべっか、悪口などを言わず、正しい言  葉を使う。 

4. 「正業」・・・正しい行い
盗み、無益な殺生、よこしまな行為をすることなく正しい行為をする。

5. 「正命」・・・正しい生活
規則正しい生活リズムを持ち、良い事は行い、悪いことは行わない。

6. 「正精進」・・・正しい努力
悟りを得るために怠り無く正しい努力をする。

7. 「正念」・・・正しい物事への取り組み方
正しい教えを心にとどめ、全ての行為をそのものになりきって雑念を交えず行う。(食べる時は食べるになりきる。働く時は働くになりきる。寝る時は寝るになりきって寝る。など)

8. 「正定」・・・正しい精神統一
正しく坐禅をする。  

なるほどこれだけ毎日やればちゃんと人生を生きられそうです。しかし「今すぐやれ」と言われてもすぐには誰もできません。

「禅」はこの八正道を日々の生活の中で行っていくための「教育システム」なのです。「教育システム」であるから良い先生につかなければなりません。先生が間違っていると間違った努力をして無駄な時間を過ごすことになります。お坊さんにならなくてもちゃんとした禅の修行ができるところがあります。「人間禅」というところで働きながら正しい臨済宗の禅の修行ができます。「人間禅」でウエブサイトを検索してみてください。

とはいえ、みんながみんな禅の修行はできませんから、この「八正道」を知って間違った事はしないようにする努力は各々ある程度はできるはずです。「こりゃ無理だ」と最初からあきらめない事。人生は一回しかありませんから、同じ人生を過ごすのなら、正しく過ごしてなるべく「苦界」の中で過ごしたくは無いものですね。放って置いたら「人生は苦」になっちゃうわけですから。

合掌
仏光
 
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posted by 仏光さん at 23:19| Comment(2) | お釈迦様

2009年02月25日

善き教えに接することは最高の財産

釈迦はいう
教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、
教えの妙味は すべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。

善き教えを解りやすく説くのは難しい。学問上のことばを使わず、言いまわしも、
シンプルにして、中学生か高校の女性徒にも解るように説くのは難しい。
男子生徒は割りと理論的に考える傾向があるが、女生徒は、どちらかといえば講演者を
好悪や目つきで判断したり、解りやすいことばしか受けつけないという傾向がある。
特に小学校低学年に釈迦の話をするのは難しい。悟りとか修行とか正しい思念とか、
妙味とか、すべての漢字に瞳が点となって、全く理解してもらえない。

善き教えはすべての贈与にまさるとは キリストも同じようにいっている。
あれこれ理由をつけて、掃除をしたり、窓を直したりせず、
すべてを投げ打って私(キリスト)の話を聞くことにまさる行為はないと。
つまり、教えを聞くチャンスを逃さずよく聞いて、自分を修正することを第一とせよ。
それは、神の門に至る地図を与えられるからである。そしてその地図をたどって
歩み出す勇気をも与えられるからである。正しき、善き話はすべてを投げうって、
耳を傾け、真理を見出すように心を傾けるといい。自己の修正に時間を費やすと、
心揺れることがなくなり、患(わずら)いと不安から遠ざかることが出来るようになるからだ。
また教える側の妙味は、聞いてくれる人々の好意と熱意のエネルギーをいただくので、
心が昂揚(こうよう=気分が高まる)し、少々の風邪の症状くらいは30分で消えてしまう。

熱い尊敬と、優しいうやまいのエネルギーが心地良く、丹田(たんでん=へその下辺り)に
たまってゆく。本当に、教えを受ける方にも、授ける方にも、すべての楽しみにまさる、
生きる充実感をもたらしてくれる。身を正し、物を売らず真を語り、
信を大切にして、先ず自分を正しく整える。
そうして、内なる光輝を静かなエネルギーに換えて興奮することなく

大声でしゃべることなく、
静かなことばを四方の隅々まで光に乗せて行き渡らせられるといい・・・。

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 21:05| Comment(0) | お釈迦様

2009年02月07日

諸行無常

諸行無常とは仏教の言葉で「全てのものは変わりゆく」という意味です。これは真理ですね。この宇宙に有るものは全て変化していきます。変化にかかる時間は違えども、全てのものは移り変わっていきます。

私たち人も生まれてから死ぬまで常に変化していきます。昨日の私と今日の私はもう既に変化しています。同じでは無いのです。という事は、極端な話、1秒前の私と今の私とは既にもうどこか違っているのです。私は自分の母親の臨終の時、母の手を握って横についていましたが、息を引き取る前の母は生きていて、息が止まった瞬間死んでいました。一秒前は生きていて、一秒後は死んでいたのです。

お釈迦様の教えはこの「諸行無常を自分のものとして悟れ!」と言っています。「全てのものは変化していくのに、変化するものに対して執着するな!」という事です。子供の頃は「早く大人になりたい」と思う人が多いのですが、大人になると「いつまでも若くいたい」と願うようになります。要するに常に変化していく自分の体に執着心が起きるのです。その執着心のために、時が流れて鏡で自分の姿を見るたびに心が右往左往する人が多いのです。だから、アンチエイジングの商品がよく売れています。

若くいたいと思うこと自体、私は極自然なことだと思います。それはそれでいいのです。しかし、「それに執着するな」という事です。執着した瞬間から「苦」が始まります。これは別に自分の姿形に限られることではありません。

もし、自分がまあ順風満帆の人生を歩んでいるとします。この場合の順風満帆とは自分の思った通りの結果が得られているということにします。人間の愚かなところはこの順風満帆の人生が永遠に続いてもらいたいと、執着しだすことです。執着心が起こった瞬間から、次はこの順風満帆の人生を失う恐怖心が起こります。順風満帆であればあるほど、それを失う恐怖心は大きくなります。そして心が右往左往しだして「苦」が始まるのです。

分かりやすく言うと1万円を持っている人は、1万円を失う恐怖心で済みますが、100万円を持っている人は1万円の人より100倍失う恐怖心が大きくなります。1万円でも100万円でもお金に執着が無い人には、それを失う恐怖心は存在しません。

私は順風満帆の人生ならばそれはそれで結構なことだと思います。しかし「諸行無常」を自分のものとして感じていれば、そのこと自体に執着することなく、一日一日自分のできることに全力を尽くし、自分が今日出会うあらゆる人にできる限りの親切を尽くす様になります。明日自分が死ぬかもしれないことが実感できますから。そのような生き方の中に失う恐怖心は存在しません。結果がどうであれ、それが一番順風満帆な人生といえるでしょう。

逆に、今辛い時期を過ごしている人が居るとすれば、それほど気にする事は無いのです。どうせ宇宙の真理は「諸行無常」です。あらゆるものは変化するのです。辛い時期もいつかは状況が変化して行きます。「朝が来ない夜は無い」のです。思い通りになってもならなくても気にしない、気にしない。何と言ったって「諸行無上」ですから。気にしている閑があったら、目の前のことで何か一つ人に喜んでもらえることでもしましょうや。

合掌
仏光


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posted by 仏光さん at 01:48| Comment(5) | TrackBack(0) | お釈迦様

2009年02月05日

お釈迦様の弟子プンナ

お釈迦様には何人もの弟子がいましたが、「説法第一」といわれた弟子がプンナです。ある日プンナはお釈迦様に礼拝してから西方の未開の土地に布教に行きたいと申し出ました。

しかし、その土地に住む人は気性が荒く凶悪である事で有名でした。
お釈迦様は「もしその土地の人がお前を罵って辱めたらどうするのか?」と聞きました。

プンナは「たとえ罵っても私に石を投げつけないのだから良い人達でしょう。」と答えました。

お釈迦様は「それでは石を投げつけてお前をやっつけようとしたらどうする?」と聞きました。

プンナは「たとえ石を投げつけても、刀で斬りつけないのだから良い人達でしょう。」と答えました。

お釈迦様は「それでは刀でお前を殺めたらどうだ?」と尋ねました。

プンナは「私の命を絶ち、私をこの世の悩み苦しみから解放してくれるのだから良い人達だと考えます。」と答えたのです。

お釈迦様は「よくそこまで耐え忍ぶ心を学んだ。そのような心で布教をすれば、きっとお前はその人達を正しい道へ導けるだろう。」とプンナの西方への布教を許しました。

このあとプンナは布教の旅に出て、殺されることも無く500人の弟子を得て西方の未開の土地で自分の寿命を全うしました。

合掌
仏光

P.S.
いつもコメントを送ってくださるさらさらさんへこの記事を贈ります。

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posted by 仏光さん at 23:58| Comment(2) | TrackBack(0) | お釈迦様

2009年01月22日

お釈迦さまと蓮の花

泥水が濃ければ濃いほど、はすの花は大輪の花を咲かせます。
泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。
ほとんど泥水ではなく、真水に近いようなきれいな水である場合、
蓮の花は本当に小さな花しか咲かせません。
大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水が必要です。
蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。


蓮の花とは、まさに人生の中で花を咲かせること、
そして、その花の中に実があるのが 「悟り」 です。
つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないのだ、
ということをお釈迦さまは教えたかったのだと思います。

人は 「悟る」 ことが出来れば、迷い苦しみはなくなり      
まわりのこと、人、もの、現象が、
みんな 「幸せに思える」 ようになります。

★ お釈迦さま は うつくしい花を咲かせるためには泥は必要であるということを
伝えたかったようです。私たちはいろいろな悲しみ・つらさ・大変なことを経験しない
限り、悟ることはできないという教えです。そんな苦難なときが来たら、

「ああ、この結果として私は大きな悟りに、美しい世界に導かれていくのだな」

と思うことが大切です。そう思えれば、自分自身にとってものすごく嬉しく楽しく、
幸せで素晴らしいこと、そして、有難いことだと気が付いてきます。

それをお釈迦様は後世の人に伝えたかったようです。
その象徴として、蓮の花が台座に選ばれました。
※ 「悟り」 とは受け入れること。受け入れるためには3秒あればよい。

1秒目、過去のすべてを受け入れること。
2秒目、現在のすべてを受け入れること。
3秒目、未来のすべてを受け入れること。

「こうありたい」 あるいは 「こうあってはならない」 と思うことは、
そのどちらも執着ということにほかなりません。執着していることが、
自分にとってのストレスになり、ストレスが体を壊していくようです。

※ 悟りを開くとは「仏」すなわち「真理に目覚めた人」に成ることをいいます。
心の迷いが解けて、真理を会得することの意。
悟りの世界=迷いのない心の安住の地。

悲しい・つらいことを否定せず、悟るために必要なもの として受け止めると、
この経験が、心を豊か にして、いつでも幸せを感じ取る事が出来ます。
人の悲しみや苦労も解る 豊かな心 になります。 

「心が豊かな人は、いつでも幸せです。」  立花敏伸氏HPより



私も、本当に死ぬほどつらい思いをして、苦しかったからこそ禅との縁ができ、そこで仏道に触れて今幸せに毎日を過ごさせてもらっていると思います。辛い思いをしなかったら絶対坐禅なんかしなかったと思うし、こんな考え、ものの見方、要するに仏道の智慧などに触れることもなかったでしょう。そして今でも自分の感情に引きずられるままに、毎日右往左往していたと思います。

面白いことに、今から思うと「あの頃の自分は、なぜあんな程度のことで死ぬほど辛かったんだろう?」と不思議に思います。その場その場では「これほど辛いことがあろうか?」「これほど悲しいことがあろうか?」と思っていてもその中にきっと自分がより成長するための種が巧妙に仕組まれているのです。そしてあらゆる困難に対する答えは、既に自分の中にちゃんと用意してあるのだと思います。それに気づくためには、やはり先人の正しい教えを見聞きし、そして少しづつでも良いから実践していくことが近道ですね。

「この世の地獄」と思って這いまわっている時でも、心の中に仕組まれた善き種が成長したら、きっと大きい綺麗な蓮の花が皆さんの心の中に咲くのでしょうね。

合掌
仏光


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posted by 仏光さん at 12:08| Comment(1) | TrackBack(0) | お釈迦様