2009年04月15日

青虫は蝶になれるか

発心(ほっしん) ― 悟りを求める心を起こすこと
(人間は、なまけものです。だけどやる気のスイッチは自分以外には押せません)

野原に二匹の青虫がいました。
一匹は空を飛び回るアゲハチョウを見上げて、

自分も早くあんなになりたいと、一生懸命葉っぱを食べました。

もう一匹は言いました。

「バカだなぁ。そんなまずい葉っぱを一生懸命食べなくたって、
青虫はそのうちアゲハチョウになれるんだよ。」

一匹は毎日葉っぱを食べ続け、もう一匹はお腹がすいたときに、
自分の好きな葉っぱをすこしだけ食べて、あとは遊んでばかりいました。
何日かたった ある晴れた日、あの野原に やせ細った一匹の青虫がいました。

「なぜぼくはアゲハチョウになれないの ?」 

小さい声でつぶやく青虫の上を、大きなアゲハチョウがとんでいきました。

● 精進(しょうじん)― 自分の仕事を怠らずに全力で続けていくこと
  (やる気のスイッチを押しても、全自動ではありません。続けましょう)


自分からはじめなくては、だれもはじめてくれません。
つづけなければ、どんなことも身につかないですね。


誰も代わることのできない、自分の人生なのです。
どんな人生にしたいですか?
どうするかは自分の心がけ次第です。
たった一度の人生です。くりかえすことのない「今」を「生かされて」いるのです。

この世は思い通りにならないことばかりで、くじけそうになることもあるでしょう。
それでもやる気を出していきましょう。
なまけぐせも限度を越すと、人間は人間としての生き方をふみはずしてしまいます。(立花敏伸氏HPより)

みんなの毎日が、そして人生が実り多いものでありますように。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 19:50| Comment(5) | 真剣に一日生きる

2009年04月11日

「善因善果、悪因悪果」

人の昇沈(しょうちん)は 定(さだ)んで 道にあり   (遍照発揮性霊集より)
人が出世するか没落するかは、道理に基づいた生き方をするかどうかで決まる。

昔は、お日さまのことを 「お天道(てんどう)さま」 といっていました。
子供がちょっとでも悪いことをすると、

「お天道さまが見ていますよ。お天道さまに恥ずかしいと思いなさい!」 と叱ったものです。

この人間社会では、人にうそをついたり、人をだましたりすると、
たちまち信用を失ってしまいます。だから私は道理にかなった、
誰もが納得できる行動をしたいものですが、なかなかそうはいきません。
真言宗を興した弘法さんは、天長5年(828)に、日本で最初の庶民のための
「綜芸種智院 (しゅげいちいん)」 という学校を創設されました。
そのとき、つくった校則の中で、こんなことを述べています。

「人が出世するか没落するかは、道理に基づいた生き方をするかどうかで決まる」

この校則は 『遍照発揮性霊集』 という書物の中に残っています。遍照というのは
弘法さんのことです。発揮性霊集とは心情を包み隠さずに書いた詩文などを
集めたもの、という意味です。道理とは天道のことです。
慶応義塾大学を創設した福沢諭吉も、

「天道さま のおきてと申すは、昔むかしその昔より今日の今に至るまで、
少しも間違いあることなし。麦をまけば麦が生え、木の舟は浮き、土の船は沈む。
きまりきったることなれば、人もこれを不思議と思わず。
されば、今善き事をすれば善き事が報い、悪きことをすれば悪きことが報う も、
これまた 天道さまのおきて にて、昔の世から間違いしことなし。然るに天道知らずの
馬鹿者が、目前の利益に迷って、天のおきてを恐れず、悪事を働いて幸いを求めんと
するものあり。この土の舟に乗りて海を渡らんとするに同じ。こんなことで
天道さまが、だまさるべきや。悪事をまけば、悪事が生えるぞ。壁に耳あり、
ふすまに目あり。悪事をなして罪を逃れんとするなかれ」と書き残しています。

弘法さんも福沢さんも、こんなことを書かれるということは、平安時代にも
明治時代にも、ものの道理をわきまえない大ばかものがずいぶんいたのでしょう。
善因善果、悪因悪果(因果の道理)は、仏教の根幹 であり、運命のしくみである。

                   (高野山真言宗 大阿闍梨 大栗道榮著「空海の言葉より引用」)

● 「善因善果、悪因悪果」とは、まとめて言うと、
「幸福という運命は、善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難という運命は、悪い行いが引き起こしたものである。善いのも悪いのも、
自分の運命のすべては、自分の蒔いたタネが生み出したもの なのだ」 ということです。(立花敏伸氏HPより)

当たり前のことを当たり前にしていたら、当たり前の結果が得られます。ところが、人間、追い込まれたり、目の前の利益に惑わされたり、自分の我が出て自己顕示欲に凝り固まったりすると、当たり前のことができなくなります。自分がしていることが如何に正しいかと飾られた理屈を並べますが、やはり真理と照らすと間違っているのです。そういう人は心のどこかに自分は間違っていると思いながら道理にかなわぬ事をしているのですね。

結局一時は良く見えても、挙句の果てに悪い種の花が咲き自分に災難が降りかかってきます。だから普段から正しいことをするのです。時には正直者が馬鹿を見るように見えることもありますが、結局はよい種の花が咲き、自分に幸せが訪れるでしょう。まあ、当たり前のことですけど。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 00:15| Comment(3) | 真剣に一日生きる

2009年02月07日

自分の人生を生きる

普通私達は自分は自分の人生を生きていると思っています。でもよくよく考えて本当にそうでしょうか。案外多くの人が、他人からの自分の評価を気にして生きているように思います。だから、他人の目が気になります。つまり他人の評価が気になるのです。

そうなると、もう自分の人生ではなく他人から評価されるための人生になってしまいます。私も昔そのような事を悩んだ時期もありました。今となれば懐かしのですが「いったい俺は何のために生きているのかなぁ?」と結構真剣に悩んだものです。

結局生まれた時から、親から、親戚から、学校から、社会から他人との比較の中で評価されて育ってきているので、評価されて生きるのが当たり前だと思っているのですね。そして評価されないと落ち込んだりグレたりする。「みんなそうやっているのだから、それが社会なんだ」と思っているのです。まあ、普通それで一生終わってしまうのですが、考えてみればそれもつまらん話です。せっかく自分の人生が与えられているのに他人の評価を気にして生きて終わりでは、自分の人生なのに自分が主人公になっていないと思えるのですね。

「貴方は何のために生きていますか?」と聞かれて「ハイ私は他人に良い評価されるために生きています。だから、他人から高い評価を得ると嬉しくて、評価が低いと落ち込みます。」では本当につまらん話です。案外、芸能人や政治家は他人からの評価がイコール人気であり票の獲得であり、それが生きる術で自分の存在価値ですから他人の目を気にして生きる人生になります。だから自分の評価が落ちそうなことは隠れてこそこそやります。まあ、それは芸能人や政治家だけではありませんし、また、中にはそうでない普通の人も多く居られると思います。ただ、やはり評価のために生きている人間の割合はどうしても多くなりますね。

多くの人は自分が自分の人生の主人公でありたいと無意識の中で願っているのですが、他人の気に触って、集団からよけ者にされるのが怖いから自分を抑えて生きているという感じを受けます。それは学校でも会社でも役所でもそうで、「それが社会なんだ」と思って生きているのです。

お釈迦様は生まれた時に「天上天下唯我独尊」と言われました。「仏がどこか天上にいるのではない。本当は貴方たち一人一人が仏なんだよ」と。ただ、これは相当修行を積まないとなかなか実感できないことです。禅の生き方とは、どの瞬間でもどの様な場所でも自分が自分の主人公になる生き方です。それができるように修行するのです。

「自分が自分の主人公になるとやりたい放題でわがままな生き方になる。そうなると社会が成り立たない」と言った人が居ました。自分が自分の主人公になるという事は、自分の欲望に引きづり廻され欲を満たすために自分さえよければよい生き方になる人が多いのかもしれませんね。とんでもない話です。そういう人は周りの目があると良い子にしているが、誰も見ていないと好き勝手にやるという情けない生き方になります。

お陰さまで私は他人の評価が全くと言うほど気になりません。そうかと言って決して他人を邪険に扱うこともありません。できる限り親切にさせてもらっています。それは「他人に自分を良く思ってもらいたい。どう見られているのか心配だからやる。」という評価のためにしているのではなく、本当にその人に幸せに思ってもらうとこちらも幸せを感じるからしているだけで、これは大変気が楽でありがたいです。

ただ、そのようにしているとどうしても独善や独りよがりになっていく可能性があります。「自分は善の心でやらせてもらっているのだ!」というのも自我(エゴ)なのですね。

禅の修行でありがたいのは、自分の先生である老師からいつもこっぴどく叱られて、へとへとになるまで坐禅をして、精も根も尽き果てて、「私は良い事をしています。」みたいなくだらんちっぽけな自我も取り除いてもらえることです。もちろん入門したての初心者にはそのようは事はありませんが、修行が進むに連れて厳しく指導されていきます。こういう修行は結構辛そうに見えます。しかし、心が普段の生活の中で安楽になっていきますから、やっている本人は面白いですよ。

一度自分は本当に自分の人生のために生きているのか、無意識のうちに他人の評価のために生きているのか、一生が終わる前に振り返って考えてみるだけの価値はあると思います。まあ、考えなくてもいつか一生は無事終わりますけど。

合掌
仏光

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posted by 仏光さん at 23:47| Comment(5) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる

2009年02月04日

蒔いた種の通りに芽が育つ

    播(ま)いた種に応じて果実を収穫する。           善(よ)い行ないをした人は、良い報(むく)いを得る。      悪い行ないをした人は、悪い報いを得(え)る。 
                      (釈迦)

きゅうりの種を蒔けばきゅうりができる。トマトの種を蒔けばトマトができる。人間は善行の種を蒔けば、良い事が自分の人生に返ってくる。悪行の種を蒔けば、悪いことが自分の人生に返ってくる。こんな事は昔から言われてきたことですが、なかなか自分が調子のいい時にできないのが善行なのです。寄付など周りから善行に見てもらえる事はするのですが、本来の善行はなかなかするようにはならないのです。

人生追い風の時は、たいがい「これくらいは許されるだろう、大丈夫だろう。バレないだろう」とちょっとした悪行をしてしまうのです。そして自分も自覚しないうちにそれがどんどんエスカレートしていきます。まあ、自分は調子がいいものですから、周りの人の注意にも耳を傾けません。「自分が正しいから、このようにうまく行っているのだ」と思ってしまうのです。

自分が調子のいい時は人の苦しみ悲しみなんか余り気になりません。「苦しい、悲しいのはそいつの努力が足りないのだ」 くらいにしか思いませんから。会社であれば部長、役員や社長、国家公務員であれば局長や政務次官になって景気もよく権勢が振るえるようになると、隠れたところでちょろちょろ悪行を始めて行きます。そして、社会的地位がありますから、「私は立派な人間です。貴方たちとは違ってこのように素晴らしい人生を歩んでいます。」という顔をして世間で過ごすようになります。

もちろんこのようなことを表に出す人は少ないです。表立っては謙虚に見せながら、内心自分でも気づかないうちに「まあ、自分は自分のお陰でうまいこといっているな」と思いながら過ごす様になるのです。そしてそのうまいこと行っている自分をさりげなく人に見て欲しい、その差を認識して欲しいという表に出さない欲望も出てきます。

ところが、いったん退職したり、会社の調子が悪くなって来ると今まで積んできた悪行が自分に向かって一気に返ってきます。通常何倍にもなって返ってくることが多いです。大体、世の中の有名人、政治家、企業トップのスキャンダルなんていうものはこの類のことが多いです。

マスコミに出る出ないは別として、調子が悪くなって来ると必ず自分の悪行が自分に返ってくるでしょう。お金を求めていた人はお金を失い、有名だった人は人気を失い、権勢を求めていた人は周りに見向きもされなくなる。

やはりある意味「天」は公平にできているのです。だから一時の見かけはどうであれやはり善行の種をこつこつ毎日蒔いていると幸せとなって返ってくるのでしょうね。

「人を嫌うと嫌われる。人を好くと人から好かれる。
人を怒ると、人から不評と文句がかえってくる。
善意を与えると次の善意がうまれて心に喜びが生じる。」

これはやはり真理でしょう。だからほんの少しで良いのです。目立たなくても良いのです。お互い毎日毎日、ささやかな善行を積んで行きましょうよ。どうせ限られた時間しか人生を生きられないのだから、悪いことをして時間を使うよりは良い事をして時間を使うのです。ずーっと前に私達が「おぎゃー」と生まれた瞬間はみんな「善」だったのですから。 

合掌
仏光

 
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posted by 仏光さん at 14:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる

2009年01月28日

釈迦の教え 刹那主義 (せつなしゅぎ) とは

★ お釈迦様が弟子に、こう聞かれました
「お釈迦さまは神通力にすぐれ、人の前世や来世が
見えるとの事ですが、私の前世は何でしょうか?」
お釈迦様はこう答えたそうです。
「そんなことは考えなくてよいから、今日(こんにち)
ただ今、この刹那(せつな) を大事にして生きなさい」
★ お釈迦様が使ったこの刹那(せつな) というのは、
今の一瞬一瞬のこと。現代では「刹那主義」といえば
「今さえよければ後はどうなってもいいと思うこと」
との意味ですが、本来の「刹那主義」とは
「一瞬一瞬を 大事にして生きる」 ことです。そして、
今、目の前の人を抱きしめること、その人に最大限
自分の笑顔を向けること、「私の」持っている言葉と
して温かいもの、人をやさしい気持ちにするもの、
思いやりに満ちたもの、励ますもの、勇気付けるもの、
どんなにひどいことをされても、心を安らげる
言葉遣いを実践することです。
★ 人間が本当に心の底から幸せを感じられるのは、
喜ばれた時です。喜ばれると嬉しい。
喜ばれる存在になることが価値ある人間です。
立花敏伸氏HPより

私たちにとって本当に確かなのは今しかありません。次の瞬間は不確かなのです。実際にテレビを見ていると色々な事件や事故、災害が毎日起こっています。秋葉原の事件も記憶に新しいですね。誰があの日、秋葉原に行って自分が事件に遭うと思っていたでしょう。

このように人間には次の瞬間自分がどうなるのかは分からないのです。だからこそ今を大事に生きるのですね。次の瞬間は私にも分かりません。私はもし次の瞬間死ぬのであれば、その前の瞬間まで人に喜ばれる存在でありたいと願っています。

合掌
仏光

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posted by 仏光さん at 22:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる

2009年01月21日

一日為さざれば、一日食らわず!

昔、中国に百丈和尚という、実在の禅の高僧が居ました。百丈和尚はもちろん「師」であり、かなりの高齢でしたが毎日寺の境内の掃除を日課としていました。禅ではこのような作業を作務といいます。

弟子たちは暑い日も雪の降る日も境内の掃除をする和尚をとても気遣っていました。弟子たちは話し合って老師に掃除をするのを止めて貰う事にしました。
「和尚はもうご高齢なのでお体が心配です。寺の掃除は私たちがしますから、どうぞ休んでいてください。」とお願いしました。
しかし、和尚は一向に掃除を止めようとはしません。そこで、弟子たちは掃除ができないように和尚の掃除道具を隠してしまいました。

道具が無くなった和尚は、仕方なく掃除をするのを止めて部屋に居ました。ところがその日から和尚は食事を取らなくなりました。「どうぞご飯を食べてください。」と泣きながら頼む弟子たちに向かって百丈和尚は

「一日為さざれば、一日食らわず!」

一日働かなかったら、一日食うな!と弟子たちを一喝しました。

私たちは何とか楽をして暮らそうと思いがちです。「できれば働かずに贅沢な暮らしができたら良いなあ」と願っている人も居るでしょう。中には「自分は頭脳ワークだ。辛い、汚い、身体を使う仕事は他の人間がやればいい。俺はそのために出世しているのだ。」と本気で思っている人も結構居られます。

しかし、そういう生き方はやはり間違っているのだと思います。こういう人間が多くの人から好かれるでしょうか?尊敬されるでしょうか?貴方はこういう人間についていきたいと思いますか?
私は思いません。

私たちは、自分の能力、身体を使ってこの世のために何かを為すために生きているのだと思います。食べるために働いているのではなく、「働くために食べているのだ」と思います。

私は百丈和尚のように、死ぬ一日前まで何かを為すためにこの世で働いていたいと願っています。

自分がどの様な立場に居ようとも、一生懸命みんなと汗を流して働いている人が好きです。私はそういう人と一緒に働きたいと思います。

さて、私たちは今日、一日を振り返って、自分に恥じることなく夕飯の箸を取ることができるでしょうか?

合掌
仏光


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posted by 仏光さん at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる