2009年04月02日

取り越し苦労厳禁

殆どの人は、この先こうなるのではないか、ああなるのではないかとまだ現実にはなっていない将来のことを心配するのではないでしょうか。私も心配しそうになる時があります。でも、これは全く無駄なことです。心配してもしなくても未来の事は誰にも判らないのです。

一旦心配が始まると心配の無限ループにはまり込んで、猜疑心が強くなったり、落ち込んだりします。これは心配を通して脳が悲惨な状態のシュミレーションをしているうちに、脳に浮かぶ情景や考えが現実に起こりうるものと脳が判断し始めるからです。

要するに現実には起こっていないのだけど貴方の脳の中では起こっている事になります。これはバーチャルリアリティー、「架空の現実」なのです。同じ架空なら自分が面白いシュミレーションを自分の脳の中でしたらいいのですね。

だから、寝る前には取り越し苦労をしないで、考えれば考えるほど楽しくなることを想って寝ることです。寝ている間に考えが潜在意識に入り込んでいきますから。

よほどの超能力がない限りは我々凡人はこう考えていればいいと思います。

「過去の事は忘れなさい。過去はもう済んだことです。何万回考えても過去は変わりません。」

「未来のことも忘れなさい。未来はまだ来ていないのです。誰も未来がどうなるかはわかりません。」

「はっきりしているのは今、この瞬間だけです。今、自分の持てる体力と知力からなる能力を出し切りましょうよ。やはり我々にはそれが最善の策です。」

結局、「般若心経」が言っていることもこういう事だと私は思いますね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:17| Comment(2) | 空の心

2009年03月18日

チャンスはピンチの顔をしてやってくる

百年に一度と云われる不況で、自分が思い描いていた人生の設計が大きく方向転換せざるを得ない人もたくさんいると思います。

その時は「大変だー!」と思うのですが大丈夫です。こんな事は人類の歴史の中で戦争や天変地異、飢饉として長い歴史の中で延べ何億人もの人達に起こっていたし、それが自分に起こっただけの話です。

そこで人生の分かれ目が出てきます。これをチャンスと取るかピンチと取るかです。皆さんこれは大変だけどチャンスなのです。まず、のほほんとしていられないので毎日真剣になります。何とかこの危機を乗り越えようと一生懸命生きるようになります。放って置けば失意でうつになる人もいるでしょうが、分からないでもないけどやはりそうなる必要はありません。

過去の危機的状況の歴史を見ると、全体から見れば亡くなる人は少しでやはり圧倒的多数が生き残り人生を続けていきます。マヤ文明は滅んだのですが人はインディオとして南米大陸に広がっています。

面白いのはこういう危機を乗り越えた後に飛躍的発展が見られることです。戦争で焼け野原になった日本が世界第二位の経済大国になるのですよ。今は不況ですが不況なりに世界第二位のままです。

これは国だけではなく個人も同じです。危機を乗り越えると実力が付き個人の飛躍的発展が見られるのです。こういう時は、がむしゃらに乗り越えなくても生き残るだけで実力がつきます。それは仕事かもしれないし、金、金、金の価値観が変わってやっと心の平穏が見つけられる価値観の土台が作られる事かもしれません。残業が減り、家族と過ごすうちに「何のために働くのか」本来の意味に気づく人もいるかもしれません。

価値観が変わると面白いですよ。例えば金や社会的地位などの価値観がゴロッと変わると、「セレブやってます」という顔をして生きている人が滑稽にすら見えてきます。私は別にお金を儲ける事が悪いと言っているのではありません。しかし、それにより自分が周りより偉いと思い出す人が多いのすね。、本人は得意満面の中にやはり不幸の種が芽生えていくから害も多いのです。たくさん儲かったら贅沢をせずに困った人へ喜捨すればいいのです。そうしたら不幸にならずに済みます。

こういう言葉があります。「チャンスはピンチの顔をしてやって来る!」ピンチの時が実はチャンスなのですが、チャンスとして自分のものにするためには自分の心を積極的な状態にしておくことですね。ピンチの時ほど積極的な良い言葉を使い、消極的なつまらん言葉は使わないことです。

いくら勇ましいことを言っても心を正しくして置く事が苦しい時にはもっと大事かも知れません。言葉は綺麗でも不正をしたり、人を傷つけていては何もなりません。

自分が苦しい時ほど周りの困っている人を助けましょう。これは結局人よりか自分が助けられることになりますから。何があっても大丈夫ですよ!人間何時からでもやり直しができます。もともと「人間本来無一物」なのですから。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 00:06| Comment(2) | 空の心

2009年03月02日

貴方の願いは成就します

あなたの願い事は成就します

「世のために、自分を大きく生かしたい」 とお願いしてください。

その願いこそ、私たちが生まれてきた理由です。
この身体は借りものです。
自分のことだけを祈るのでは決して霊験はありません。
自分の為に、この一生があるのではなく
人の為に役に立てるためにこの身体がある。

「この私の願いが叶えば、必ず仏様に代わり、衆生(しゅじょう) のために尽くします」

という願いは必ず成就するものです。
                     
                                百万人にお遍路を伝える会の小冊子より


霊験(れいけん)・・・人の祈請に応じて神仏などが示す霊妙不可思議な力の現れ。利益(りやく)。
衆生(しゅじょう)・・・この世に生を受けたもの全てを意味する。
           特に、業の深き人間を指すことが多い。
           立花敏伸氏HPより

私は天がこのような願いを放って置くはずが無いと思います。人に喜んでもらえる幸せは何物にも変えられませんね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:08| Comment(9) | 空の心

2009年01月26日

心はどこにある?

達磨さんは実在の人物で、インドから中国に禅仏教を伝えた人です。正確には菩提達磨と呼ばれています。達磨大師が中国に来た時、最初に弟子になったのは慧可という人でした。慧可はなかなか達磨大師の弟子にしてもらえず、ある日、自分のひじから先を切り落として、道を求める決意を達磨大師に示してやっと弟子にしてもらいました。

ある日、慧可が「私は修行にいそしんでおりますが、どうにも心が不安で落ち着きません」と大師に言いました。大師は「そうか。それではお前の心をここに持って来なさい。俺が安心させてあげよう。」と答えました。

慧可は一生懸命自分の心がどこにあるのか探しましたが、どうもはっきり「何処に有る」ということが分かりません。散々考えた挙句、「私は私の心がいったい何処にあるのか分かりません。」と大師に言いました。達磨大師は「ほーら、俺はお前の心を安心させてやったぞ!」と答えました。

これは少し分かりにくい話ですが、我々は普段「心が痛い。」「心が疲れた」「心が晴れた」などと言っていますが、、「じゃあお前の心は何処にある?出してみろ!」と聞かれると「何処」ということははっきり答えられません。「じゃあ、お前には心が無いのか?」と言われると、はっきり「心は有る」と断言できるのです。

このはっきり何処にあるのかも分からない、姿形も見えない「心」というものに、毎日振り回されて右往左往しながら私達は生きているのです。

じゃあ心は何処にあるのか?どんなものなのか?

もちろんそれは見えるわけも無いのですが、私はこういうことだと思っています。晴れの日に外に出て天を見上げると、そこに雲一点も無い「空」が広がっているとします。私たちは空を見上げて「今日の空は澄んでいるな」とか「青い綺麗な空だな」とかいっているのです。しかし、実際にそこには宇宙に続く空間が広がっているだけで、「空」という「物」は無いのです。「空」という実態は無い。空間だけですから。「じゃあ、お前の頭の上には空は無いのか?」と言われると、「いや、ちゃんとそこには空が広がっている」としか答えられないのです。「なるほど、それではその空を持って来い」といわれても持ってはいけません。
どうも「心」とはこういうものではないかなと思います。

達磨大師は、そのはっきりしないものを後生大事に「自分の心だ、自分の心だ」と執着して、実体の無い「心」というものに「いつまでお前は振り回されておるのだ」と教えてくれているのではないでしょうか?

皆さんも一度「自分の心は何処にあるのか?いったいどんなものなのか?」真剣に考えてみたら面白いかもしれませんね。

合掌
仏光


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posted by 仏光さん at 23:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月25日

とらわれない心

仏の教えは中道の教えです。中道とは、極端に走らずに、
ゆったりとした道を歩むことです。寝食を忘れて、
死にもの狂いになって修行をするのは、あまりにも極端すぎます。
かといって、怠けているのは駄目です。そういう極端を避けるのが中道です。

中道というものは、楽しみながら歩むことだといえるでしょう。
たとえば、山を登るのも、あせらずゆっくりと景色を楽しみながら、
山にはえている植物を観察し、 昆虫を眺めながら登るのが中道です。


ここに一本の材木が大きな川に流れ出ました。この材木が両岸に近づかず、沈むことなく、人にも取られず、渦に巻き込まれないなら、
ついには海に流れ入ります。この材木のたとえのように、物事にとらわれず、
「信は任すなり」 の境地で、人生の流れに身を任せて生きるならば、
苦しみや迷いのない清らかな中道の生活を送ることになり、
遂には彼岸の地 極楽浄土に到達することでしょう。

とらわれないとは、執着しないこと、握りしめないことです。

執着心を起こすと初めの内は楽しいようでも、たちまち迷いの生活となり
様々な苦しみをもたらします。しかし、此の世の中の人々は身分や
富の多少にかかわらず、金銭のことばかりにこだわり、
お金がなければ無いで苦しみ、あればあるで苦しみ、 心が安まるときが
ありません。お金のために自殺する人もいます。自殺しなくとも、
生きるとは死への旅なのです。…………

人生はレンタル、私達のすべては仏様から無料で預かっているだけです。
身も心も、生きている時間さえも。…………

とらわれない心は、仏の教えを信じることにより授けられます。
悲しみが有れば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがあります。
悲しみも喜びも越えたところが、とらわれのない世界です。

★「 信は任すなり」 とは、

   己を捨てて神仏にすべてをお任せするという意味である。

人生はとらわれない生き方の良い修行の場。
  喜びと悲しみがある。


 (仏教聖典より一部引用) 立花敏伸氏HPより


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posted by 仏光さん at 14:14| Comment(3) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月23日

無欲の大欲

道端のアスファルトを突き破って新芽が出ているのをみたことがあるだろう。
アスファルトにぶつかった新芽は、一瞬にしておしつぶされてしまったはずである。
けれども、じわじわと無限小の速度で、無限大の時間をかけて、
新芽が押し出ようとすれば、それが無限大の力となってアスファルトにひびが入り
それが少しずつ割れていき、ほんの小さな隙間からでも、そこから新芽は伸びてくる。
つまり、新芽のように「無限小」の速度でも「無限大」の時間をかけて行動すれば、
そのエネルギーは「無限大」となり、不可能も可能になるのである。

◎ 欲望を捨てれば不可能が可能になる発想法 (正木和三先生著書)
人間には限りない欲望がある。欲に目がくらむといわれるように、
欲望を持っていては、それに とらわれて 創造性などは生まれてこない。
「無欲の大欲」 とは目先の欲望を捨て
自分のすべきことを黙々とこなしていけば、大きな成果が得られることを意味している。
欲望は心の外に捨て、目標 (理想) を心の底にしっかりと置き、一歩一歩確実に、
自分のなすべきことだけを果たしていくことが大切なのである。
目先の欲望に目も心もすべて奪われている間は、実行力も判断力も創造力も、
みな宙に浮いたままである。
お釈迦さまは悟りを開いた時「悟りを得たい」
という欲望があるうちは、心の目は盲目である。

----「修行」とは自分の行ったことが、自分以外の人に幸せを与えることなり------

他の人に幸せを与えるエネルギーが、自分の中にある生命体エネルギーを高め、
自分に還元され人間性が向上していくのである。

自分さえよければいいと他人を不幸にすることが、生命体に負のイメージとなり
蓄積されれば、その人の人間性は向上しないのである。人生は坂道を登るがごとし、
誰しも長い坂道や、何十段もある階段は登る前からうんざりするものであろう。
人生の階段も同じである。
頂上を見ながら登ると「まだか、まだか」と思い、それだけで疲れてしまう。
しかし一歩一歩足元をみつめ堅実に登っていけば、いつの間にか
頂上に達しているものである。頂上ばかり見ている人は
頭だけ高く、ふんぞり返っている。足元だけをみながら、一歩一歩着実に進んでいく人は
頭が低く、自然と高い所へと登っている。昔の人の教えに「道の上にある黒い石を踏むな」
というものがあるが、これも同じである。遠くにある目標は見なくても決まっている。
下を見て、地面の黒い石を踏まぬようにこまやかに観察し、
一歩一歩堅実に歩め、とのことである。

人間は誰しも人生、生き方における 「理想」 を持っているだろう。
その理想を 「目標」 としているならば、欲望 は捨てなさい、ただ絶対に到達しないような
大きな 願望 を持ちなさい。そして忘れなさい。
そうして自分の足元の一歩一歩を確実に歩んでいきなさい。そうすれば自然と目標へと
近づいていく。一歩ずつ確実に進むには「一生懸命」これが大切である。

※ 欲望・希望・願望・陰徳
欲望は目標がなく今の現実を避けており、希望は現実性があり、
願望は明確な目標があり夢を描がいているのです。
夢は希望につながるから悪いことではありませんので大いに持つことです。
しかし欲望は自己満足で自分さえよければと、思っているので個人的な感情だけで、
世間から見てもあまり評価されません。「陰徳」とは、かくれた徳である。
人にみせびらかさない善(よ)い行い のことをいう。自分はこういう善いことをしたなどと
得意がり、人にみせびらかしては、たとえそれが善いおこないであっても、
決して陰徳とはいえないのである。どんな小さなことでもよい、
人から喜んでもらえるようなことをしてただ、もう、うれしくてならないのが陰徳なのである。

 若いときに、血のにじむような努力をし、陰徳を積み
 多くの人々に幸福を与え、自分の利益や 欲望を捨て去って はじ めて
 この世に不可能はなくなるということなのである。
立花敏伸氏HPより

禅ではよく足元を照らせという話があります。暗い夜道に、ずっと先には何があるのだろうと一生懸命先を照らしても、その分足元が暗くなり石に躓いて転んでしまいます。

自分が不安なものだから、先先と見たくなるものですがぐっと我慢して今目の前にあること、今しなければいけないこと、今日会う人を大事にすることが先決でしょう。明日生きている保証は誰にも無いのです。今日の自分の行動が人に喜んでもらえるなら、こんなに幸せな日はありません。同じ一日、自分の欲に使うより、人に喜んでもらうために使いたいものです。

合掌
仏光


posted by 仏光さん at 15:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月20日

人生の出来事のすべてに、教えがあります。

● 特に苦しいこと、悲しいこと、辛いことからたくさんの学びがあります。
しかし、人はその教えに気づかず「苦しい」、「悲しい」、「辛い」、という感情が、
心の中を占領してしまって悩んでしまいます。悩むと心は疲れ、病んでいきます。

悩みの打開策は、この出来事は 「私に何を教えているのか考えてみる」 ことが大切です。
そして、その教えに気づいたら 感謝 することです。
このように何事も感謝の心で受けいれるという習慣が身につけば
心はいきいきと健康で豊かな心に成長し、
どんなことにも「幸せを感じて」生きていけます。

幸せ とはつかむものでも、来るものでもありません、ひとえに 感じるもの です。

心が貧しくては幸せを感じることはできません。
われわれはご飯を食べる方法は知っていてもご飯をいただく感謝の心を忘れています。
貧しさは心の中にあるのです。感謝の心を常に忘れずどんなことにも
幸せを感じる 「豊かな心」 に成長させなくてはなりません。

こころが豊かに成長するためにはトレーニングが必要です。そのトレーニングは
自らの魂が生まれる前に書いたシナリオ通りに、この世で体験します。
我々はこの試練を、辛くとも 「幸せを感じる心」 を作るために
与えてくれた 「ありがたい心のトレーニング」 と受けいれることです。
そして、この出来事は私に何を教えてくれているのか、その教えに気づくことです。
そして、教えに気がついたら 感謝する ことです。

● 感謝すると、いいことがいっぱいやってきます。
それは、感謝の波動が、協力のエネルギーを呼ぶ からです。
どんな出来事も教えに気づき 「感謝の心」 で受けとめるという習慣が身につけば、
幸せをいっぱい感じられて、この世は素晴らしいということを実感することでしょう。

★ 今 私は苦労のお陰で、苦労した何倍もの 幸せを感じて生きています。
それは、急な山道を重たい荷物を持って登ってきて、それらの荷物をおろして
平坦な頂上近くのなだらかな勾配の道にたどりついて、下を見下ろして
よく登ってきたな、いい景色だな。肩の荷がおりて軽い、楽だ。とてもうれしい。
そんな感じです。「苦は楽の種」 を実感しています。
苦しい、つらい、悲しいことは幸せを感じる心を作るための
心のトレーニング (良薬) です。何事も感謝の心で受けいれるという訓練が
「心を健康」 にし、苦難が人の痛みの分かる 「やさしい心」 をつくります。
人は心が健康でなければ、幸せを感じることはできません。
そのために心のトレーニング(良薬) は必要です。
やさしい心は周りの人を幸せにします。周りの人の幸せを己の魂は一番喜びます。
魂が喜ぶと、当然自分の「心」は幸せを感じます。

● 釈迦は、この世の悩み・苦しみの根元は「思いどおりにならいこと」と見抜いた。
だから、「思いどおりにしようとしないで、受け容(い)れよ」と言った。
その最高の形は「ありがとう」と感謝することだったのです。
この思いどおりにしようとする執着心はとても心を苦しめます。
そして、物に執着すると失う苦しみがおそってきます。失う苦しみから逃れるために、
弘法大師は「布施の行」をしなさいと説かれています。布施の行とは我欲を捨て、
人のために生きることです。
布施の行も含めた「天を味方にする生き方」が幸せを感じる心をつくります。

『笑って暮らすも一生、泣いて暮らすも一生』

ドイツの格言
  
  幸せのヒント 「幸せを選択する」

自分に無いものを嘆くより、有るものを喜ぼう
暗いことを考えるより、明るいことを考えよう
イヤな人のことを考えるより、好きな人のことを考えよう
自分の欠点ばかり考えずに、長所のことも考えよう
悩んでばかりいないで、幸せになれることをしよう。

「不幸」を数えて暮らすより、「幸せ」を数えて暮らそう
立花敏伸氏HPより


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posted by 仏光さん at 22:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月13日

空の心

生きていくうえで、信念とか優しさとか厳しさとかを前面に押し立てて
嵐やら波風にまともに立ち向かっていける人はそう多くは
いないでしょう。日々のちょっとした出来事や、考えてもしょうがない
先の漠然とした不安やら、人の言葉尻に一喜一憂しながら腹を立てたり
笑ったり泣いたり妬みやっかみ、罵りながらおまけにズボッとはまるのがわかっていて、つい、どろんこの水たまりに脚を入れてみたくなるのが人生なのね。

比べてもしょうがないのに、持つ者と持たざる者、美人だとか
不美人だとか足が長いかいとかあらゆるところに比べるものがあってね。
人の幸、不幸が始まるのね。

生まれた以上、必ず死ぬという大前提があるわけで、いつ死ぬか
わからない。順番通りとはいかぬということは誰でもが知っていることでありますが、我が身に置き換えて素直に受け止める人はまずいない。
金、金、金 出世、名誉、楽したい、旨い物食べたい、もてたい・・・
亡者とまではいかなくても、欲が多少なりとも有るのね。
どうしようもない人間が右往左往して今日もくれていく。
神様やら仏様の知恵をお借りしながら生かされている自分に
気付かさせていただく日々でありますように・・・・

ふふふ   ほほえみ地蔵さんが  今日も笑顔でね…・・

                 (秘密のお地蔵さんより引用)


●おぼれている母親と妻、どっちを助ける?

母親と妻が川でおぼれかかっている。さてどちらを先に助けるべきか?
やはり、親孝行が一番大事だから母親を助けるか?それとも縁あって
結ばれたのだから、妻を助けるか?
しかし、こんなことを考えていると二人ともおぼれて死んでしまう。
さあ、あなたならどうする!?
答えは、近くにいる方から助ける、である。母親だから、妻だから、
と考えるのは「母親」「妻」いうレッテルをはることである。
こだわっているのだ。このこだわりを捨てる事がすなわち
「空」なのである。…・・

                (ひろさちや仏教百科より引用)



とらわれない心・かたよらない心・こだわらない心

広く広くもっと広く これが般若心経、

 「空の心」 なり


posted by 仏光さん at 15:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 空の心