2009年02月15日

苦難は幸せの前半分

苦難とは

大病をした、災難、寝たきりの親の介護をずっと何年もしてきた、
大変な苦労をしたなど・・・・・・・・を体験した人です。
その体験のおかげで、何事もない、当たり前の日々が
淡々と過ぎていくことがどれほど幸せか、ということに気がついた人々です。
そういったつらい思いをしたことによって、普通に生活できることがどれほど幸せかを、感じることができます。例えば、捻挫をして
一週間歩きにくくなったことによって、治ってから普通に歩けるようになったことが、ものすごく幸せに感じられます。このように、
病気や事故や災難ということをとおして、
幸せの本質に体験的に気がついてしまう人が1パーセントいます。
その人たちは、何かを手に入れなくても幸せを感じられるようになったので、
ものすごく幸せで ラッキーな人 、と言ってよいでしょう。

では、その幸せを感じられる理由となった病気や事故や災難やトラブルは、
不幸なことだったのでしょうか ? その答えは、それは不幸などではなくて、
「幸せの前半分」だったということです。大病をしたことと、
そこから回復して幸せを感じられることとは、ワンセットになっていた。
それで、闘うこと、抜きん出ること、人と争うこと、比べることが、
自分の人生の中になく、ただ、普通に歩けること、普通に食べられること、
普通に話ができること・・・
すべてが、ありがたくて ありがたくて 手を合わせることができる、
「今のままで十分幸せだよね、必要なものは全部いただいている」という
ことに気づいてしまった。自分も、目の前の相手も、今のままで すでに
100点満点であると思えるわけです。99パーセントの人は
何かを手に入れなければ幸せを感じてはいけないと思い込んでいます。
ところが大変な苦難を経験した人は苦難のお陰で、
このままの状態で満足、ただただ幸せだと感じられるようになったのです。

その1パーセントの人は自分に必要なものはすべて地球や宇宙から
与えられていること、どんなに自分が恵まれていて、
生かされているかということに気づいてしまった人です。
その1パーセントの人は「夢も希望もない」暮らしをしているのです。
この1パーセントの世界に来た人は、今の瞬間から幸せを感じることが
出来ます。しかし、残りの99パーセントの世界の人は、
何かを手に入れなければ幸せを感じてはいけないと思い込んでいます。
この洗脳から解き放たれて、執着がなくなった人 を「ほどけた人」と呼び、
それが「ほとけ」の語源となりました。「執着」から
解き放たれていない人たちが、99パーセントの世界の住人ということです。
心の花園5
小林正観氏「悩みをゼロにする」より引用 立花敏伸氏HPより

苦難こそ幸せを感じるためのスタート地点なんですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 19:04| Comment(6) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法

2009年02月11日

苦しい時

本来の自己
人生で苦しいときは、「苦しい」という念が起きるのは当然です。
ところがその念に「自分だけがなぜ」「あの人が悪いからだ」
「もう自分なんかどうでもいい」という具合に、負の念を次々と
重ねてしまうところがあります。「自分はこうあってほしい」という
「わが思い」があるからで、「苦しい」という初念で止まらず、
迷い悩み出します。心は本来、何も無いのです。何も無いから様々なことに無心に反応できるのです。ただ日常生活でことに触れて起こる最初の思いの後に、すぐ「わが思い」に彩られた念が次々と起こります。
その念の連鎖で蓄積された妄念のあるままに物事に触れるようになり、自在に本来の心が働かなくなります。ただ「本来の自己」を真実、自覚することはよほど修行に徹しないといけません。

でもひとつ方法があるのです。最初の「苦しい」という念が起こったら、
「人生は苦しい時もあるのだ」と負の連鎖をストップしてしまう。
それができると、おのずと心のゆとりが生まれ、
今なすべきことがみえてきます。「本来の自己」に近づくことができるからです。

妙心寺派布教師 藤原東演

心安らかに生きるために
宗教とは、人間として生きるべき道を明らかにされたもので、
それを法といいます。何を行い、何をしてはいけないのかを学ぶものです。
それは、目に見えぬ神仏に敬意と畏(おそ)れをいだき、またそういう心が、悪に対してブレーキの役目も果たしてきたのです。
しかし、宗教に関心がない人が大多数を占めるようになった現在、
犯罪やいじめなどが増加していることはこれと無関係ではないと思います。
「仏の教え」をひとことで言えば「慈悲の心」といえます。
それは、相手の苦しみや悲しみがわかることです。
孔子も「己の欲せざる所は人に施すなかれ」と教えています。
「自分がされて嫌なことは、他人にしてはいけない」ということです。
誰も見ていないからいいだろうという自己中心の考えが、利己主義を
はびこらせ住みにくい世の中にしていきます。みんなが「慈悲」の心や思いやりの心 を持った時、そのままそこが、彼岸(ひがん=心安らかな)の世界となるのです。子供にお手本となる生き方がしたいものです。

福岡県・開運寺住職 池上寛道 (臨済宗妙心寺発行 「花園」 より引用 心の花園1)

何があっても、どの様な仕打ちを受けようとも「与楽抜苦」、人に楽しみを与え、人の苦しみを取ってあげる。これさえ忘れなければ結構幸せな人生を送ることができます。同じように相手に怒り争っていては、それこそ相手と同じ地獄の衆生として苦しみのた打ち回るだけです。いつも自分は「泥の中に咲く蓮の花」になりたいものです。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法

2009年01月29日

皮一枚への執着

仏教の修行法のひとつに、『不浄観』 とよばれるものがある。
人間として生きることに執着したり、異性を貧ることから離れるためには、
いかに人間というものがけがれていて 汚いものであるかということを
認識すればよいのである。『女の色気はいつまで続くのか』 と息子にきかれた
年おいた母親が、だまって火鉢の中の灰を火箸でかきまぜているので、
『あー灰になるまでか』 と息子が気がついたという話がある。
人間というものは、どうもいくつになっても色気は残るもののようである。
いい年をしたヒヒ爺が、二十代の若い女を妾にしたりするのが、
何も小説の中だけの話ではなく、現実にそこらへんにごろごろしていることである。
もしこの世に、男女の区別がなく、単細胞生物のように、細胞分裂によって
生殖がすむとすれば 苦しみの方だって結構減るのではないかと思われるほど、
この世界では、男女問題で苦しんでいる人間が多いのも事実なのである。

残念ながらこの世に男女はある。しかもお釈迦様もキリストの神様も、
『汝姦淫するなかれ』 と仰せられているし、お釈迦様の方は、
『出家者は、異性に対する欲望を断ち切って、全く男女関係を持ってはいけない』 と
まで仰せられた。
『こりゃ何とかしなきゃならん』 ということから 考え出されたのが、
前述の 『不浄観』 なのである。アバタもえくぼとばかり、
この世に女はこの人しかいないとのぼせあがり、女神のように思っている彼女でも、
毎日九つの穴から汚物をたれながし 今でこそ若いが、やがてあと 三十年もたてば
くそ婆か鬼婆となり もうあと何十年かたてば、死体になって腐っていく などと
観察してゆけば、だんだんと異性に対する欲望が なくなってゆくというのである。
見合いをする時、本人を気に入るのはもちろん大切だが、その結婚生活を
長続きさせようと思ったら、その人の母親をよく観察すればよい、とよく言われる。
今はけっこう美しいが、それは若いからであって、 あと何十年かたつと、
確実にこの母親のような婆さまになる。それでも俺は我慢できるだろうか と
考えるわけである。同じことは男性側にも言えるが、女性というものは
深慮遠謀型が多いせいか、男の外側 よりも、内容(ただし、財産、学歴、職業、
給料、家柄といった別の意味の欲望の対象にしか過ぎないが)の方を
重視するので、あまり外見の方は 気にしないようだ。考えてみれば、
いくら素晴らしい絶世の美女や美男子でも、毎日眺めていれば やがて飽きがくる。
外見の美貌にばかりとらわれる男の方が、 浅はかかもしれない。

昔はほとんどが土葬であったので、恐らく埋葬されたあと、何日か何十日かたって、
野犬か何かに墓地をあばかれ、腐った死体が食い荒らされ、
うじが 無数にわいている姿を見る機会がよくあったと思われる。
現代だって、殺人や自殺の場合、同じ現象は起こるし、解剖用に病院の地下の
薬品プールに浮いている死体だって、似たようなものである。
このように考えてくると、自然に異性に対する欲望が なくなるというのだが、
本当にそうだろうか。事実は逆である。前述の 『アバタもえくぼ』 とは
よく言ったもので、一度思いこむと、不浄観なんてくそくらえ ということに
なりかねない。人間というものは、なかなか真実に目を向けようとしない。
生まれたものは必ず老化し、やがていつの日か死んでゆくのである。
別の言い方をすると、
人間の死亡率は百パーセントなのである。 だが、だれしも人間は、
自分だけは特別だと、知らないうちに思い込んでいる。
他人の眼くそ鼻くそは汚くても、自分のものは汚いとは考えていないのである。
だからこそ、いくらお釈迦様が 

 『人生は苦である』
 『人間の存在は不浄である』
 『異性に対する欲望を断て』

と仰せられても
『人生は楽しいし、女はきれいだ』 と思いこむ。そこに、
実は落とし穴が あることを 知らない。どんな美女も、皮一枚はがせば、
中にはドロドロした 肉と血と汚物だけだ、と言われてみても、
なおかつ人間は、その皮一枚に  執着するし、執着させようとする。
まず、この 『美人は皮一重』 であると いう事実を知っても、
なおかつこの 『一重の皮』 に執着するのが人間である。
立花敏伸氏HPより

頭では分かっても普段の生活ではなかなか徹底できないのが男女関係でしょう。修行でもこれが一番無くせない煩悩だと思います。多分ずっと無くならないでしょう。
それは我々の細胞内にあるDNAの一番の目的が、自分のコピーを作って存続する事だからです。このDNAのプログラムは無くすことはできません。ただ、諸行無常の本質を理解することで美人だ男前だと、外側の皮一枚のことで心を右往左往する事は無いかもしれませんね。

合掌
仏光

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posted by 仏光さん at 08:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法

2009年01月10日

悲しい時、悩む時は・・・・

● 99パーセントの人、1パーセントの人

世の中は、99パーセントの人と、1パーセントの人に分けられます。
100パーセントの人が、学校教育や社会に出て働く中で、闘うこと、抜きん出ること、人と争うこと、比べることを教わります。教育と名のつくものは、100パーセントこれをやってきました。しかし、世の中の人は100パーセントそういう方向で生きていくはずなのに、1パーセントほど、その教えから外れる人が存在しています。99パーセントの人が歩んでいる路線とは、違う価値観で生きている人がいるのです。

その1パーセントの人たちとは、大病をした、大事故に遭った、災難、トラブルに巻き込まれた、寝たきりの親の介護をずっと何年もしてきた、大変な苦労をしたなど・・・
を体験した人です。その経験のおかげで、何事もない、当たり前の日々 が淡々と過ぎていくことがどれほど幸せか、ということに気がついた人々です。
そういったつらい思いをしたことによって、普通に生活できることがどれほど幸せか、を感じることができます。例えば、捻挫をして一週間歩きにくくなったことによって、治ってから普通に歩けるようになったことが、ものすごく幸せに感じられます。このように、病気や事故や災難ということをとおして、幸せの本質に体験的に気がついてしまう人が1パーセントいます。
その人たちは、何かを手に入れなくても幸せを感じられるようになったので、ものすごく幸せで ラッキーな人 、と言ってよいでしょう。

では、その幸せを感じられる理由となった病気や事故や災難やトラブルは、不幸なことだったのでしょうか ? その答えは、それは不幸などではなくて、「幸せの前半分」だったということです。大病をしたことと、そこから回復して幸せを感じられることは、ワンセットになっていた。それで、闘うこと、抜きん出ること、人と争うこと、比べることが、自分の人生の中になく、ただ、普通に歩けること、普通に食べられること、普通に話ができること・・・
すべてが、ありがたくて ありがたくて 手を合わせることができる、そういう人が1パーセント生まれるのです。この人たちは「持っていないものを挙げ連ねて、それを手に入れることが幸せだ」と教えられたにもかかわらず、あるとき180度方向転換をして、
「今のままで十分幸せだよね、必要なものは全部いただいている」ということに気づいてしまった。自分も、目の前の相手も、今のままで すでに100点満点であると思えるわけです。

面白いことに、「ほしいものを50個書いてみてください」と言うと、ちゃんと50個書ける人がいます。別荘が欲しいとか、車が欲しいとか、結婚相手が欲しいとか、子供が欲しいとか・・・・・。
「では、同じ数だけ、すでに手に入れているものを書いてみてください」と言うと同じ数だけ書けません。しかし、この1パーセントの人たちに、「手に入れているものを書いてみてください」というと、いくつでも書き出すことが 出来ます。
そして、「では、同じ数だけ、足りないものを挙げてみてください」というと、同じ数だけ書けません。

●「ほとけ」の語源

どうしてでしょうか。それは見ている世界が違うからです。
両方の世界を均等に見ることができる人はいなくて、99パーセントの世界の住人か、1パーセントの住人かに完全に分かれます。この二つはまったくものの見方が違います。ですから、足りないものを50個挙げられる人は、同じ数だけ、持っているものを挙げることができない。
足りないもの、手に入れたいものだけを見つめているからです。
成績が悪いから、もっと成績を上げなくてはいけない。という教育の結果、上昇志向とか、自己啓発とか、向上心というものに、つねに追い立てられて、安らぎを感じることなく疲れ果てて死ぬというタイプの人がほとんどでしょう。

しかし、自分がどれほどたくさんのものを手に入れているか、必要なものはすべて地球や宇宙から与えられていること、どんなに自分が恵まれていて、生かされているかということに気づいてしまった人は、どんな生活をしているのか。その1パーセントの人は「夢も希望もない」暮らしをしているのです。この1パーセントの世界に来た人は、今の瞬間から幸せを感じることが出来ます。しかし、残りの99パーセントの世界の人は、何かを手に入れなければ幸せを感じてはいけないと思い込んでいます。
この洗脳から解き放たれて、執着がなくなった人 を「ほどけた人」と呼び、それが「ほとけ」の語源となりました。「執着」から解き放たれていない人たちが、99パーセントの世界の住人ということです。

● 五つの解決方法

いろいろな問題に出合ったときに、私たちは三次元的に 三つの解決方法 を持っています。
三次元というのは、普通の物質世界・経済社会のこと。
三次元に対して解決方法が三つであるというのも面白いことなのですが、その 一つ目 は戦うこと。討論し、相手と議論を戦わせ、相手を納得させ屈服させ、その人を乗り越える というやり方です。二つ目 は、逃げ出すこと・逃避すること。
この課長のもとでは、あるいはこの社長のもとでは、やっていけないと思い、その 会社を辞める、などというのはこの方法です。
三つ目 の方法というのは、我慢し忍耐を、し続けること。
この方法によって問題を解決する(というよりは先送りしているわけですが、この方法を選んでいる) 人は少なくないでしょう。多分、問題に直面したときに、もっとも多くの解決方法として、この三番目を選んでいるのではないかと思います。

ところが、四次元に、実は 四つ目の解決方法 があります
それは「気にしない」という方法です。

さらに、五次元に五つ目の解決策があります。これはかなりレベルの高い方法なのですが、それは「気にならない」という解決方法です。
もともと、目の前に問題が生じたときに、その問題を解決する方法として、戦ったり逃げ出したり我慢したりする方法を考えたのでした。
それに対し、問題を認識しないということで、まったく初めから問題を感じないという、そういう根源的な解決方法があるわけです。

つまり、問題を問題として認識しないという人格の在りよう・在り方が、もともと問題を生み出さないという考え方です。
仮に、私が「やーい、出べそ」と言われたとします。
その言われた「出べそ」ということが私にとって事実であるならば、私は気になりません。
本当のことを言われたのだから腹は立ちません。逆に、「出べそ」でないのに「出べそ」と言われたのであれば、それは事実を指摘されたのではないので、別に気にならないわけです。「出べそ」であることを「出べそ」と言われて、事実を言われたのだから気にならないのと同様に、「出べそ」でないものを「出べそ」と言われて、事実ではない指摘をされたことについて、まったく腹は立たないわけです。

つまり、事実であれば腹は立たないし、事実でないならば腹は立たない。
どちらも腹は立たないわけで、それはどちらも「気にならない」のです。
つまり、初めから問題がない、問題をつくらなければ、問題を解決するという考え方もないわけです。問題を問題としない人格、まったく気にしてない人格をつくり上げることが、すべての問題の根源的な解決につながっているような気がします。

立花敏伸氏HPより
posted by 仏光さん at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法