2009年03月04日

雨にも負けず (引用宮沢賢治)


雨にも負けず風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲はなく決していからず
何時も静かに笑っている
一日に玄米四合と味噌と
少しの野菜を食べ
あらゆる事を自分を勘定に入れずに
良く見聞きし判り
そして忘れず
野原の松の林の影の小さな萱葺きの
小屋に居て

東に病気の子供あれば行って
看病してやり
西に疲れた母あれば行って
その稲の束を背負い

南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくて良いと言い
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い
日照りのときは涙を流し
寒さの夏はオロオロ歩き
皆にデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず、苦にもされず
そういう者に 私はなりたい。

私がまだ若い頃、この宮沢賢治の詩を読み「この人はいったい何を考えて生きているのだろう?人生を無駄に生きろということか!」と思ったことがあります。その頃は俗に言う立身出世が私のゴールでした。

それから、確かに私は経済的な余裕、物質的な豊かさ、社会的な肩書きをすべて手に入れました。十分すぎるくらい手に入れているにもかかわらず、「もっともっと」とあくせく生きていました。

手に入れた時には嬉しいのですが、すぐにそれが当たり前になり「もっと」と思うようになりました。決して穏やかな心で「自分は幸せだな〜」と感じたことは一度も無かったです。でも人より勝っていると思う優越感だけが生き甲斐みたいになっていました。

それが、急転直下苦しい思いをする期間が続く中で、初めて人の苦しさ、悲しさ、悔しさが判る人間になりました。また、そのころ出合った禅を通して人にとって何が一番大事であるかが分かった気がします。

今はこの「雨にも負けず」を見る度にこの詩の境涯の高さ、豊かさに感動を覚えます。そして今、「生きていて良かったなぁ」と心から思えます。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 21:01| Comment(49) | 足るを知る

2009年01月08日

小欲知足は幸せの第一歩

禅の言葉に 「吾(われ)唯(ただ)足(た)るを 知る」 と言うのがある。
京都、竜安寺方丈の北側にある蹲(つくばい)は、水戸光圀が寄進したと言われて
いるものだが吾・唯・足・知の四文字を組み合わせた 「五知足の蹲(つくばい)」として
よく知られている。

地位も名誉も財産もあまり欲張らず、
今ある状態を常に感謝して日々を過ごせという教理。

決して多くを求めず、あるがままに満足する喜びを知る事すなわち、次から次へと
欲望を膨らませず 足るを 知る(満足する) 心を持つことが大切である。と説いた。

つくばい : (茶庭の手水鉢石の手水鉢を低くすえてあって、手を洗うのに茶客がつくばう事から つくばい という)

昔、昔のことであります。大変貧しい村に一人のお坊さんが立寄りました。旅の途中であったけれども、その貧しさに心動かされ何とか村の人達を助けようと思われました。着る物も、食べるものもなく、みすぼらしい小屋に住んでいる人々は、お坊さんの気持ちに深く感謝しました。 さて、お坊さんは、川原へ行き石を選び、村の東の外れに一体、西の村の外れに一体、それぞれお地蔵様を建立されました。村人を集め、石を重ねたお地蔵様の開眼供養の法要をおごそかに務められました。
その後で、こんな話をされました。 東と西のお地蔵様は皆にとって大切な仏様ですよ。西のお地蔵様はどんな小さな願い事でも成就される仏様です。ただし東のお地蔵様は願い事をしても何も叶えて下さらない仏様ですよ。然し、私は西のお地蔵様より東のお地蔵様を皆は拝むといいよと言い残して旅立って行かれました。 そこで村人達はこのように話し合いました。

今のお坊さんの話では東のお地蔵様を拝むといいと言われたが、東のお地蔵様は願い事を叶えてくれない仏様であるから願い事が叶うかどうかを試す必要はない。然し、西のお地蔵様は、どんな大きな願い事でも、どんな小さな願い事でも叶えて下さる仏様だと言われた。そこで、代表を立ててお坊さんの言葉が本当かどうか、仏の働きが誠かどうかを調べてみようと言うことになり、一人の青年が代表として選ばれました。
「お地蔵さん、お地蔵さん、私は村人を代表して、初めてお願いに参りました。
生れてこの方、白いご飯を腹一杯食べたことがありません。どうか、お地蔵様、私に腹一杯のご飯が食べられるだけのお米を下さい」 とお祈りを捧げました。
翌朝、青年が目を覚し、仕事に出かけようと外に出るとそこには米俵が一俵置いてありました。お地蔵様が願いを叶えて下さったことに感謝し、家に戻って、腹一杯ご飯をいただきました。 これを聞いた村人達はお坊さんの言葉は本当だったと納得し、われもわれもと先を争って、西のお地蔵様に願い事を持ってお参りしました。
或る者は食べ物を或る者は衣服を、そして或る者は住む家をお地蔵様に願いました。
それぞれの村人達は、それぞれの願いが叶い、今までとは打って変わって、それはそれはぜいたくな生活ができるようになり、不自由さは感じなくとてもいい生活に変って行きました。しかしその頃から、西のお地蔵様への願い事の内容が以前と違ってまいりました。
「お地蔵様、お地蔵様、私の家の西隣りの家は、私の家の屋根棟より一尺も高い立派な家になりました。西隣りの家のことは何も叶えて下さらないようにお願いします。でも、私の家は西隣りの家よりも更に立派な家にして下さいますように」

つまり、他人のことはどうでもよく、自分のことのみ欲を増して行くような願い事をするように、村人全員がなって行くようになった。 和とか、人への優しさとか、思いやりとかいう、人の持つ慈悲の心がいつしか無くなって行きました。
そんな時、お地蔵様を建立された お坊さんが旅の帰りに立寄られ、 「ほんに、豊かな村になったものよ」 と、出合った村人に話を掛けられました。
村人が言うには 「生活は確かに豊かになりました。しかし、心だけは一層貧しくなりました」 と言いました。
「私は、皆に東のお地蔵様を拝むといいよと言って旅立ったのになあ」 と言われたとか。
つまり、この話は少欲知足の大切さを解っていただきたい為の仏教説話です。

※ 「慈悲の心」 とは、「与楽抜苦」つまり、人々を慈(いつくし)しみ、心の楽しみ、安らぎを与える心であり、人々の苦しみを とり除き、相手の悲しみを共にする心をいうものである。 (他に対する思いやりの心)

●「少欲知足」 の足るを知る と言うのはひとくちに言うと
「物質的に乏しくても、精神的には充実した生活の喜びを知ること」である。
御殿の様な家に住んで泣いて暮らしている人もあり、プレハブ住宅の中で常に笑いがこぼれ、明るく暮らしている人もある。
幸せというのは 心の持ち方で決まって来るということである。

幸せになりたいと思ったら、私たちは、日々起きてくる、また消えていく、そういった目先の現象にとらわれることなしに、また、自分と他人を比較して考えることをしないようにするのが大事です。
自分と他人を比較しますと、どうしても他人の方が何かよく見えてきて、それで、 あの人の方が自分より幸せそうだと、自分も幸せになりたいからといって、 自分にないものまで自分に求めていったりすることになって、 結局は自分で自分を苦しめるという悪循環が起きてくるわけです。

●『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)=お釈迦さま臨終の際の最後の教え』にも知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。
不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖(いえど)も 亦意(またこころ)に称(かな)わず。
不知足の者は、富めりと雖(いえども)も而(なんじ)も貧し。

足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても幸せを感じている。
しかし足ることを知らない者は天にある宮殿のような所に住んでいても満足できない。
足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。お釈迦様は人間の欲望は大きければ大きいほど人を苦しめるんだと、お経の中で言っておられます。

「多欲の人は利を求むること多きがゆえに、苦悩もまた多し」 と、「少欲の人は無求無欲なれば、即ちこの煩(わずら)いなし」と、こういうふうなことを言っておられます。
欲望というものは大きくなればなるほど人間を苦しめるということを教えているわけです。
ただ、人間の欲望というのは人が生きていく原動力にもなっているわけですから、これは人間生きている限り絶対に滅することはできない。
ただ、欲望を小さく抑えることはできる。努力して我慢をするといいますか、欲望を抑えていくことはできる。少なくとも今与えられているものだけで十分だと自分に言い聞かせることによって、欲望の無限大の肥大を抑えることはできる。少欲知足は幸せになるポイントです。

  「どこで生きようとも、害心ある事なく、さまざまな苦難に耐えて、恐れる事なく、何でも得たもので満足し、何物にもとらわれず、あるがままに生きよ 感謝の心を忘れず、正しく生きよ。」  釈迦

※正しく生きよ・・・六波羅蜜・八正道の実践

立花敏伸氏HPより
                       
posted by 仏光さん at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 足るを知る