2009年03月15日

怒り、ストレスは病気の原因

釈迦 いわく
怒りをやめて、安らかに臥(ふ)す。
怒りをなくして、悩まない。
怒りを滅ぼすことを、聖者たちは賞讃する。
ヴァトラブーよ。それを滅ぼしたならば、悩むことがないのだ。

現代の人々にとって、怒らない日を過ごすことは生きる上で大切な指針とすべき
大切なことである。怒りやイライラや不安は多くの人にストレスとなって、
様々な病気を引き起こしているからだ。心も体もその人自身の怒りと、人から怒られる
ことで生じる恨みでズタズタになって、訪ねてこられる。その人は怒り続けることで
心に罪の意識が生じる。また、毎日の生活の中で怒りがなくならないことと、
怒りに執着する自分が許せない。このささいな心の争いが心の隅に残って気になり、
イライラが増してゆく。こうして怒りはさまざまな障害と心のねじれをもたらす。
怒りが収まって初めて、安らかに床につける。

釈迦が「ヴァトラブーよ」と呼びかける時、そこにあなたの名を入れ替えてみるとよい。
釈迦が、親しげに呼びかけてくれるのを感じるだろう。
「さあ、君は、怒りを減らしなさい。そうすると、今の悩みは消えてゆく。
もう、その人を許し、その人に、許しの光を送りなさい。」と・・・・・。
そうすると、あなたが救われる。怒りを収めて丹田を練り、ゆっくりと息を吐いて
心を静めてみるといい。どんな悪しき状況に置かれても、怒りを収め、許すことを覚えて
ゆくようにする。ボクシングの世界大会で解説の元チャンピオンが、体験を話していた。
リング上では怒った方が負ける。怒らせた方が勝つ。怒った人は理性を失い、
腕の振りも足なみも乱れてくるから、空振りが多くなると・・・・・。
あらゆる世界で怒りは、次のステップのチャンスを失う。

釈迦はさらに次のようにいわれる。
「怒らず、恨まず、欺(あざむ)かず、誹(そし)ることなく、
また戒(かい=いましめ、戒律)を保ち、良き友を得、良き知恵のある修行者は、
死んだのちに、来世で悲しむことはない」
怒りによって、人を傷つけたならば、次の転生に影響してくる。怒りは次の怒りを呼び、
来世でその怒りによる苦を自分が味わう。いつまでも怒りの業は消えず、
その与えた悲しみとつらさを深く味わうまで、業は追いかけてくるという。
ストレスと怒りは人の心のエネルギーを外に漏らしているのと同じだ、怒り、
不安になると、元気が失せ、寝込んでしまうことがあるように、
心のエネルギーが失われてゆくのを感じるだろう。
また、ガンは怒りによって発火する。人はみなガンの体質を持っているといわれる。
例えば、蒔きと紙だけで火がつかないように、ガソリンは怒りであり、
マッチはストレスである。 怒りとストレスは
マッチとなって激しい火を起こし、薪を燃やし細胞をガン細胞へといざなう。
北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より 立花敏伸氏HPより

天地の「気」というかエネルギーというのか、目には見えない今の物理学では測定できない何らかの力が有ることは確かだと思います。もっと素粒子とか、ブラックホールとか宇宙物理学が進むと少しづつ解明されていくと思いますね。このようなことを神秘的に考える必要は無いと思います。

ただ、自分の心の状態がこの天地の「気」のバルブになっていると私は確信します。心が安らかだとバルブが開いてプラスのエネルギーが入ってくるし、心が怒りや不安で乱れるとこのエネルギーの供給が少なくなり病気になります。完全にストップすると死にますね。

人生には苦しい時もあります。そういう時は思いっきりプラスの言葉を使って、塞ぐ心で閉まりがちなバルブを目いっぱい開きましょう。最終的には人は皆自分だけが頼りなのです。私は苦しい時こそこの天地の「気」をいっぱい取り入れるようにしています。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:35| Comment(2) | 自我

2009年03月12日

考えない

「悩む」と言うことはどういうことなのでしょう。普段私はよく「この世に悩みの無い人はいません。」という話を聞きます。よくよく「悩み」について考えてみると、「自分はこうしたい。自分はこうありたい。」という自分に対する思いに現実の情景が違う場合に人間は悩むみたいです。要するに思う通りにならない時に悩むのです。

私の家には「トラ」という猫がいます。家と外を行ったり来たりしながらもう13年も一緒に住んでいます。私の家は山の上にありますので車にひかれる心配もありません。私は「トラ」をよく観察するのですが、全くといっていいほど悩みはなさそうですね。かなり自由に生きていますが、やはり家族の一員として一緒に住んでいるので全部が全部「トラ」の思い通りにはなりません。

例えば外に行きたいと思っても、誰かが玄関を開けてくれないと外には出られません。寒い日に家に帰りたいと思っても家族が外出していれば外にいなければいけません。お腹が減っても家の者がいなければ帰って来るまでお腹を空かせて待っています。

でも、「トラ」には悩んでいる様子はありませんし怒ってもいません。もちろん猫と人間では脳の容量も違うので全く比較の対象にはならないのですが、私は「トラ」から時々学ぶことがあります。

「トラ」は「自分はこうしたい」という思いがあって現実にそうならなくても、その「思いが叶わない」ことについて何も考えていないのです。ただじっと待つ。この何〜にも考えていないのが「トラ」が幸せそうに生きている秘訣ではないかと思います。

例えばお腹を空かせて誰もいない家で待っていても、家人が帰ってきてキャットフードを貰えると嬉しさいっぱいになって、嬉しさ以外には何も無くなってしまうのですね。

これが人間だと大変です。「いったい何時になったら帰って来るんだ!この俺を何と思っておる!相手のことを考えないからこんなに遅くまで帰ってこないのだ!」とずーっと考えながら、ぷりぷり怒りながら待っている人もいるでしょう。そしていざ奥さんが帰ってくると「いったい今何時だと思っているのだ!遅くなりそうだったら電話しろよ!早く何か食わせろ!」と帰ってきた奥さんに怒ったりします。

奥さんが帰って来たら何か食べるものを作ってくれるから嬉しいはずなのに、放って置かれた怒りの方が嬉しさより優先されるのです。だから幸せではない。

私は「トラ」から自分の思い通りにならなくてもそのことについてずーっと考えないことを学んだ気がします。そして、思いが叶うとただそのことについて喜ぶ。すると結構猫みたいに穏やかに一日が暮らせるものです。

坐禅では「二念を継がず!」と言います。坐禅をしていると「アッ、あの人に電話をするのを忘れた!」みたいな雑念がボコっと頭に浮かびます。普通だと「すぐに電話をしなければ。電話が無いから心配しているかな?」という風に次々と念が頭に浮かんできて考えが広がっていきます。坐禅ではボコッと雑念が浮かぶのはそれは仕方が無い。でもそこでその念を捨てよと言われます。次に続けない。したがって、坐禅の修行をするという事は何万発も頭に浮かぶ考えを捨てる訓練なのです。

深く考えられる事は人間の特権です。この特権を感謝や嬉しさに使うか、怒りや不安に使うのかで天と地の差が出てきますよね。同じ特権があるのなら、感謝や嬉しさにこの特権を使って、怒りや不安などのマイナスの考えは捨ててしまいましょう。きっと猫みたいに穏やかに一日が過ごせるようになりますよ。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:08| Comment(2) | 自我

2009年03月03日

自己を苦しめる自我

野球の試合で、あなたがピッチャーをつとめることになったとします。

最終回の裏、同点でツーアウト満塁。しかもツーストライク、スリーボールです。

「もし、フォアボールを出してしまったらどうしよう」
「落ち着け、自分ならやれる」
「恥はかきたくない。いや、そんなことはどうでもいい。
ベストを尽くせばいいじゃないか」・・・・・・・

次々と心に雑念がわいてきます。
これでは、ボールのコントロールを云々(うんぬん)する前に、
心のコントロールができなくなってしまいます。

このように、わたしたちが悩むのは、
失敗と成功、名誉と不名誉、損と得、苦と楽、勝ちと負け・・・・。

二つの感情や考えの間で、心が一方へ行ったり、反対へ行ったりする。
あるいは、一方だけに執着してしまうからです。

誰だって、自分のことを良く思われたい。得をしたい。いやな目に遭(あ)いたくない。と、考えるものです。

この「自分は」「自分だけは」という気持ちこそ、
相対する感情や、考えの間をうろつかせたり、
一方へ固執(こしつ)させたりして自己を苦しめる犯人なのです。

これを「自我」と呼びたいと思います。言い換えると、
わたしたちが普通、心と呼んでいるのは、
この「自我」にほかなりません。

そして、釈迦は、
苦しみの根源は「欲望と執着」であると説かれています。
立花敏伸氏HPより

人間の欲には果てしがない。
それはちょうど塩水を飲む者が、
いっこうに渇(かわ)きが
とまらないのに似ている。
彼はいつまでたっても
満足することがなく、
渇きはますます
強くなるばかりである。
                                      釈迦 

欲を心から離れて見やれ 何がなくとも充分じゃ

白隠禅師


自分の「思い」「思い込み」が自分を苦しめます。日々淡々と自分の事は終わらせて、後は人のお役に立てればいいのですね。

自分の「思い」が強い人は「心が重い」人になります。
自分の「思い」が軽い人は「心が軽い」人ですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:14| Comment(5) | 自我

2009年01月17日

お釈迦様の教え

なぜ辛(つら) く、苦(くる) しいのでしょう?
満たされない…
欲しいものがまだまだ得られない…
そんな思いをしたことはないですか?

生きている間、ずっと 「満たされない渇(かわ)き」
に苦しむのが人間なのだ、とお釈迦様は説かれました。

この満たされない渇きは、自分の好きなものに執着(しゅうちゃく)し、
嫌いなものに憎しみを抱く、そんな人の思いによって強まります。
また、この世界の命あるものは無常(むじょう) です。
(無常 : この世のすべてのものは常に変化して定まりのないこと)

美しいものも、時とともに姿を変えます。自分の身体さえ若さを
失って、老います。
それに執着しようとすれば、苦しみが生まれます。
人間は、美しいものに心を奪われて、迷い、失うことを恐れ、
そして思うようにならないものに悩み、不安になり、苦しみます。

また生きているうちに何かを追いかけなければという
焦燥感(しょうそうかん)や、(焦燥感 : いらいらする)
老いへの迷いに取りつかれると、さらなる苦しみが生まれます。


「移り変わっていくものに心を奪(うば) われる者は、惜(お)しみ、
貧欲(どんよく) になり、憤(いか)り、愚(おろ)かになる。
時には、正しいものの見方もできなくなる。
……全(すべ)てのものは心によって起(お)こり、心に支配される。
しかし私たちは心に支配されず、心を支配する主(あるじ)と
ならなければいけない。
そして、あるがままに全てを観(み)る智慧(ちえ)をもつべきである。」

※【般若(はんにゃ)】とは智慧(ちえ)のことであり、智慧とは悟りを得る、真理を把握するための正しい判断力のこと。


立花敏伸氏HPより
posted by 仏光さん at 13:55| Comment(4) | TrackBack(0) | 自我

2009年01月07日

苦しみの元は自分の自我

野球の試合で、あなたがピッチャーをつとめることになったとします。

最終回の裏、同点でツーアウト満塁。しかもツーストライク、スリーボールです。

「もし、フォアボールを出してしまったらどうしよう」
「落ち着け、自分ならやれる」
「恥はかきたくない。いや、そんなことはどうでもいい。
ベストを尽くせばいいじゃないか」・・・・・・・

次々と心に雑念がわいてきます。
これでは、ボールのコントロールを云々(うんぬん)する前に、
心のコントロールができなくなってしまいます。

このように、わたしたちが悩むのは、
失敗と成功、名誉と不名誉、損と得、苦と楽、勝ちと負け・・・・。

二つの感情や考えの間で、心が一方へ行ったり、反対へ行ったりする。
あるいは、一方だけに執着してしまうからです。

誰だって、自分のことを良く思われたい。得をしたい。いやな目に遭(あ)いたくない。
と、考えるものです。

この「自分は」「自分だけは」という気持ちこそ、
相対する感情や、考えの間をうろつかせたり、
一方へ固執(こしつ)させたりして自己を苦しめる犯人なのです。

これを「自我」と呼びたいと思います。言い換えると、
わたしたちが普通、心と呼んでいるのは、
この「自我」にほかなりません。

そして、釈迦は、
苦しみの根源は「欲望と執着」であると説かれています。

人間の欲には果てしがない。
それはちょうど塩水を飲む者が、
いっこうに渇(かわ)きが
とまらないのに似ている。
彼はいつまでたっても
満足することがなく、
渇きはますます
強くなるばかりである。


                                      釈迦 

posted by 仏光さん at 14:43| Comment(0) | TrackBack(1) | 自我