2009年03月22日

お経を読む

般若心経というお経はもっとも知られているお経でしょう。「般若心経を唱えていると心が落ち着く。」とか「不思議な力が有る。」とかよく聞きます。でも、その意味を現代語でよく理解している人は少ないかもしれません。「ちょっと訳が分からないところもあるけど、ありがたうそうなので唱えよう。」中には全くその意味を知らず、何しろありがたいので唱えるという人も居るでしょう。

私はそれはそれでもいいと思っています。しかし、これが現代文に訳されて、例えば「弟子の捨利子さん、五感で人間が感じているものは実は空なんだよ。そんなもんに騙されちゃいけないよ。人間にはその内なるところに素晴らしいものを持っているのだから、それを十分発揮して幸せになりましょうね。」と訳されたりすると「何だ、そんなことか。」と有難みが急に薄れてきたりします。

何か難しそうで、どこか神秘的なところを残しておかないと有難みが湧かないのです。人は神秘的なものに惹かれますね。

でも、よく考えてください。御釈迦様は悟りを得たと確信してから、インドの貧しい村々を回ってその教えを説いていきました。そして、それを聞いた人々は「なるほどそういうことかい。」と納得して帰依していったのですね。歴史的事実として、その当時の貧しい村々で教育も受けていない人達が納得するように説いたのだから、その内容が難しいわけが無いと思います。

その説いた話が、弟子たちによって書きとめられて、それが中国に渡って漢字に訳されて、それが日本に渡って日本の古文に訳されていくうちにえらく難解な内容のお経になって、学者でもよく判らないということになってしまったのですね。そして、お経などその判らないところが何となく神秘的で、もっと神秘的な雰囲気をかもしだすお堂で、立派な袈裟を着たお坊さんが何人も一緒に読経されると「何かわけは判らんけど有り難い!」という風になるのです。

しかし元々は2500年前のインドの貧しい農民に説かれた内容ですから、やはりシンプルに考えた方が、もしくはシンプルに感じた方が良いのではないかと思います。まあ、神秘的でないとありがたみが無いから困るという人も中にはいるでしょうから、それはそれでその人達には良いのではないかと思います。

臨済禅では「神秘を語らず、迷信を説かず。」とはっきり言っています。「神秘や迷信で人を惑わすな!」と。「自分で坐禅してお釈迦さんの言っている真理を自分で確認しろ!」という事ですね。知識でわかるというような生易しいものでは無いのです。私は自分が実際に禅をやってみて「なるほど!」と思えます。だから私にはこっちの方が良いですね。

人それぞれの生き方はあると思います。私は何でもかんでも科学的に解明しなければだめとも思いませんが、神秘的なことを追い求めて訳がわからんままに死ぬのもやっぱり嫌だなと思います。自分ができることはやろうと思えばできるのだから、やっぱり禅をやりながら人生を過ごしたいですね。

ただ、皆さんに「禅をしろ」を言っているわけではありません。できる人はすれば良いだけの話です。しかし、心が弱った時に神秘的なものにすがりたいと思うのは分からないでもありません。でも、世の中にはそれに付け込んでもっともらしい雰囲気をかもしだしながらごまかしをする人間も多いので、やはりお釈迦さんが説いた「自燈明、法燈明」です。自分を拠り所に、仏法を拠り所に生きて行った方が間違いは無いみたいですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 11:04| Comment(2) | お釈迦様
この記事へのコメント

 いまを大事に そして 自分自身の
 成長のためにも 禅をしたいとおもいます!

 
Posted by さらさら at 2009年03月23日 19:54
坐禅をしたい人を助けるのが私の役目です。いつでもどうぞ。

合掌

仏光
Posted by 仏光 at 2009年03月23日 23:11
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