2009年04月11日

自燈明、法燈明

これもまた、お釈迦さまが日々、さまざまな場で幾度となく口にされている言葉である。
「自灯明 (じとうみょう) 法灯明 (ほうとうみよう)」 (自帰依・法帰依) の教えといい、
法はいまでいう法律の法ではなく、仏の教え のこと。

そして、続けていわれたのが、 「この世において移ろい変らぬものは何一つない」 という事。
つまり、この世は無常ということだ。だから
「みずからを拠(よ)りどころとし、他を拠(よ)りどころとしてはいけない」といわれたのだ。
そして 「仏の教えを拠(よ)りどころにしなさい」と。

みずからを拠(よ)りどころとするためには、みずからが依(よ)って立たない心構えが必要だ。
といっても 「自分がいちばん」 というわけではないのはもちろんである。
むずかしいことではあるが、地に足をつけ、すくっと立っていたい。

お釈迦さまは 「頼りになるのは自分であるぞ」 と教えられました。
他人を拠り所にしたのでは、その他人から見放されれば、
あるいは、その人がいなくなってしまえば、途方にくれるほかありません。
あくまでも 自分で立ち、自分で歩まなければいけないよ、と諭(さと)されたのです。

法灯明 とは 「法を灯明とし、法を拠(よ)り所としなさい」 という意味です。
自分は何を拠(よ)り所にして生きればいいのか。「法」よりほかはない。
「真理」よりほかにはない。他を拠り所にしてはならないよ、とお教えになったのです。

法 とはお釈迦さまの教えであり、仏の教え、即ち 仏教という真理 を意味します。(立花敏伸氏HPより)

心が弱ると人や他を頼りにしたくなるものです。しかし、それでは頼りにしている人や会社がこけると自分もこけることになります。本来は自分自身を頼りにしなければなりません。それを深く自覚して自分ができる事をこつこつ行うことが大地に足がついた、裸一貫になっても大丈夫な自分を作り上げます。

でも、それだけでは独りよがりになる可能性も有るので、お釈迦様は真理をよりどころにせよと言われたのです。何が真理なのか正しい教えを受けることも大事ですね。私は釈迦の教えがなるほど正しいと思っていますよ。「千里の道も一歩から」まず自分のできる範囲から自燈明、法燈明を始めましょう。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:14| Comment(4) | お釈迦様

「善因善果、悪因悪果」

人の昇沈(しょうちん)は 定(さだ)んで 道にあり   (遍照発揮性霊集より)
人が出世するか没落するかは、道理に基づいた生き方をするかどうかで決まる。

昔は、お日さまのことを 「お天道(てんどう)さま」 といっていました。
子供がちょっとでも悪いことをすると、

「お天道さまが見ていますよ。お天道さまに恥ずかしいと思いなさい!」 と叱ったものです。

この人間社会では、人にうそをついたり、人をだましたりすると、
たちまち信用を失ってしまいます。だから私は道理にかなった、
誰もが納得できる行動をしたいものですが、なかなかそうはいきません。
真言宗を興した弘法さんは、天長5年(828)に、日本で最初の庶民のための
「綜芸種智院 (しゅげいちいん)」 という学校を創設されました。
そのとき、つくった校則の中で、こんなことを述べています。

「人が出世するか没落するかは、道理に基づいた生き方をするかどうかで決まる」

この校則は 『遍照発揮性霊集』 という書物の中に残っています。遍照というのは
弘法さんのことです。発揮性霊集とは心情を包み隠さずに書いた詩文などを
集めたもの、という意味です。道理とは天道のことです。
慶応義塾大学を創設した福沢諭吉も、

「天道さま のおきてと申すは、昔むかしその昔より今日の今に至るまで、
少しも間違いあることなし。麦をまけば麦が生え、木の舟は浮き、土の船は沈む。
きまりきったることなれば、人もこれを不思議と思わず。
されば、今善き事をすれば善き事が報い、悪きことをすれば悪きことが報う も、
これまた 天道さまのおきて にて、昔の世から間違いしことなし。然るに天道知らずの
馬鹿者が、目前の利益に迷って、天のおきてを恐れず、悪事を働いて幸いを求めんと
するものあり。この土の舟に乗りて海を渡らんとするに同じ。こんなことで
天道さまが、だまさるべきや。悪事をまけば、悪事が生えるぞ。壁に耳あり、
ふすまに目あり。悪事をなして罪を逃れんとするなかれ」と書き残しています。

弘法さんも福沢さんも、こんなことを書かれるということは、平安時代にも
明治時代にも、ものの道理をわきまえない大ばかものがずいぶんいたのでしょう。
善因善果、悪因悪果(因果の道理)は、仏教の根幹 であり、運命のしくみである。

                   (高野山真言宗 大阿闍梨 大栗道榮著「空海の言葉より引用」)

● 「善因善果、悪因悪果」とは、まとめて言うと、
「幸福という運命は、善い行いが生み出したものであり、
不幸や災難という運命は、悪い行いが引き起こしたものである。善いのも悪いのも、
自分の運命のすべては、自分の蒔いたタネが生み出したもの なのだ」 ということです。(立花敏伸氏HPより)

当たり前のことを当たり前にしていたら、当たり前の結果が得られます。ところが、人間、追い込まれたり、目の前の利益に惑わされたり、自分の我が出て自己顕示欲に凝り固まったりすると、当たり前のことができなくなります。自分がしていることが如何に正しいかと飾られた理屈を並べますが、やはり真理と照らすと間違っているのです。そういう人は心のどこかに自分は間違っていると思いながら道理にかなわぬ事をしているのですね。

結局一時は良く見えても、挙句の果てに悪い種の花が咲き自分に災難が降りかかってきます。だから普段から正しいことをするのです。時には正直者が馬鹿を見るように見えることもありますが、結局はよい種の花が咲き、自分に幸せが訪れるでしょう。まあ、当たり前のことですけど。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 00:15| Comment(3) | 真剣に一日生きる