2009年02月28日

心の中の幸せを感じて・・・・

人生の喜びや悲しみ、運の善し悪しは、自由に変えられません。
しかし、幸せは心を変えるだけで感じ取れます。

幸せとは、自分の心が決めるのです。幸せを探している人は、
その幸せが訪れても気が付かず、不幸だと思っている人は、
一生幸せが訪れないかもしれません。
同じ事をしているのに、幸せを感じる人と、不幸と思う人がいます。
実は、幸せと不幸は、同じ心が決めるのです。

幸せは、いつも心の中にあります。

その幸せを心で感じ取れるかどうかです。

お金持ちの人、貧乏の人、健康の人、体の不自由な人、色々な環境の人がいます。
同じ環境、同じ生活をしていても幸せを感じ取れる人と不幸と思う人がいます。
不思議ですね?

「幸せ」と「不幸」は、同じなのです!

人生の苦楽は当たり前、現実を素直に認め、否定せず、楽・喜・辛・悲を心の糧として、
「プラス」に転じる事の出来る人は、どのような時にでも幸せを感じ取る事が出来ます。

心を豊かにし日々の生活を大切にする「心」が幸せの第一歩です。
立花敏伸氏HPより

 一期一会

幸せは,いつも心の中にあるのだから!

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:06| Comment(4) | 物事は必ず好転する

2009年02月27日

欲望には限りなく、人を地獄に落とす

スメーダ尼
四洲の主、マンダータルは、欲望に耽溺 (たんでき=よくないことに夢中になること)
することを極めたが、遂に満足することなく死にました。
彼の欲求はかなえられませんでした。人々は欲望に満足することなく、死にます。

スメーダ尼のこのことばを聞くと、私はギリシャの船主で当時世界一の大富豪であった、
オナシスを思い出す。彼は派手な女性、世に名高い婦人を好み、
人を愛していなかったため、マリア・カラスを手にするも結婚することなく、
さらに、また名声と権勢好きであったジャクリーヌ(元ケネディー大統領夫人)と
一緒になった。欲の人が、欲の種類が違うとはいえ、欲の人と結びついて、
平和を得られるはずもなく、欲を制し得ない人たちは欲のドロ沼に陥り、
身と心を清めるチャンス(教え)に接することなく、生存を終える。
いかに世界の富豪になろうとも、貧なるマザー・テレサの清さにはかなわない
ことを見ても、決して賢き人たちとはいえない。いつの時代も、
いかなる環境においてもこの法則は貫かれる。人は同じオーラの人と結集し、
悪しき欲の人たちはお互いに利用し、お互いに汚れの道を歩む。
自分を慎み釈迦の教えを聞き、得た金銭を貧しき人々、困窮にある人々を救うために
使うならば、本当の愛を知る人が かの人たちのもとに天から派遣される。

マリア・カラスは失意に沈み、ジャクリーヌは、買物依存症候群 に陥り、
湯水のごとくオナシスの金銭を海に流した。オナシスは苦のまま死に、オナシスの子と
ジャクリーヌは、残った財産を争った。しかしやがて欲のままこの世を去った。
今見るにマイケル・ジャクソンがお金を得ることによって、
マンダータル王の苦しみの中に入ってしまつたように見受ける。

果てしない欲と、大金によって、心がコントロールできなくなり、
深い悲しみに心が覆われ、ねじれ ねじれて、罪を犯す。
マンダータル王は、遂に満足することなく死んでしまった。
スメーダ尼は淡々という、
かの人果てしない欲求はかなえられませんでした。
自分の都合だけを主張する人は欲に満足することなく死にますと。

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より引用 立花敏伸氏HPより

明治の頃の狂歌ですが、「この世では金と出世が敵(かたき)なり、どうぞ敵にめぐり合いたい!」という仕方の無い歌があります。何となく人間らしくて笑ってしまうのですが、頭では分かっていても、どうしても自分の欲で利益を追い求めてしまうのが人間です。

追い求めた末、その先は地獄では割に合わない話ですね。「家族がそれなりに食べていければそれで感謝!」と思っていれば良いみたいです。もし自分にそれ以上の余分が与えられれば、恵まれない人に喜捨すれば良いだけの話ですね。こりゃ極楽ですよ。

合掌
仏光
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2009年02月26日

人生は一呼吸

人はこの世に生まれて、一番最初に何をするでしょうか、
まずこの世の空気を吸って、オギャーと元気よく泣くでしょう。
それではこの世の最後、人はどうするでしょうか、
フーと、息を吐き終えるや、ご臨終です。人の一生はこの世の空気を
吸って始まり、息を吐いて終わる、一呼吸のようなものかもしれません。
人は無意識に呼吸しています、無意識であるということは、
生きようとするお身体さまがちゃんと呼吸してくれているからでしょう。人間は自分の意思で生きているようであって、あんがい生かされているのかもしれません。欲張り心が、むくむくと高まってくると、
あるいは自分勝手な心が、動き始めると、
人の呼吸は不思議と乱れ、荒くなります。
けれども、深呼吸、ゆっくりと息を吐くことを数回すれば、
気持ちが落ち着き、冷静さが取り戻せるものです。
(※ 腹式呼吸法 下記参照)
人は、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚癡(無知)、など、
自らの煩悩によって、自分の歩むべき道を見失ってしまう。
煩とは頭が燃えているという字です。
それで自分で悩みを深くしてしまうのです。

 「煩悩(ぼんのう)の炎が燃えさかっているから鎮(しず)めなさい
 静かに、姿勢を正し、息を整えなさい、そうすれば、
 気持ちも自ら静まり、己の姿も周りのことも、
 すべてがよくわかるようになるでしょう」

 ※煩悩(ぼんのう)・・・心身を悩まし、苦しめ煩(わずら)わせ、汚す精神作用。



お釈迦様はいつも人々に、このように説かれました。
人生とは、よくよく考えてみれば、一呼吸のようなものでしょうか、生まれ出て「こんにちわのご挨拶・オギャー」ここから始まって、最後は「言葉もなく、フーと」、息を吐き、終わりです。
けれどもこの最後に「フーと」息を吐き終える時「ありがとう」の気持ちが込められるでしょうか、人生が幸せであったかどうか、
人の一生、終わり良ければ全て良しと、生きたいものです。

※腹式呼吸法

仕事中や勉強中でも、寝た状態でも、座っていても、立っていても簡単にできるのが腹式呼吸法です。腹式呼吸を行うことで血圧も安定し、
肺のすみずみまで酸素が送り込まれます。毎日10分間から20分間
行うことで気持ちも落ち着き、体も活性化されます。

口を閉じ、鼻からゆっくりと息を吸い込む。この時、お腹が膨らむようにして、息を吸い込むことがポイントです。充分に息を吸ったら、
次は口を閉じたまま鼻からゆっくりと息を吐き出す。吐き出しながら、
お腹をへこませるようにする。

息を吸うときも、吐くときも、体に力を入れないようにしましょう。
手をお腹において、膨らんだりへこんだりすることを、
確認しながら行うとよいでしょう。 立花敏伸氏HPより  



 災いが内からわくことを知らず、

 東や西の方角から来るように思うのは愚かである。

 内をおさめないで外を守ろうとするのは誤りである。

              (六方礼経)


合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:16| Comment(6) | 心のトレーニング

2009年02月25日

善き教えに接することは最高の財産

釈迦はいう
教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、
教えの妙味は すべての味にまさり、教えを受ける楽しみはすべての楽しみにまさる。

善き教えを解りやすく説くのは難しい。学問上のことばを使わず、言いまわしも、
シンプルにして、中学生か高校の女性徒にも解るように説くのは難しい。
男子生徒は割りと理論的に考える傾向があるが、女生徒は、どちらかといえば講演者を
好悪や目つきで判断したり、解りやすいことばしか受けつけないという傾向がある。
特に小学校低学年に釈迦の話をするのは難しい。悟りとか修行とか正しい思念とか、
妙味とか、すべての漢字に瞳が点となって、全く理解してもらえない。

善き教えはすべての贈与にまさるとは キリストも同じようにいっている。
あれこれ理由をつけて、掃除をしたり、窓を直したりせず、
すべてを投げ打って私(キリスト)の話を聞くことにまさる行為はないと。
つまり、教えを聞くチャンスを逃さずよく聞いて、自分を修正することを第一とせよ。
それは、神の門に至る地図を与えられるからである。そしてその地図をたどって
歩み出す勇気をも与えられるからである。正しき、善き話はすべてを投げうって、
耳を傾け、真理を見出すように心を傾けるといい。自己の修正に時間を費やすと、
心揺れることがなくなり、患(わずら)いと不安から遠ざかることが出来るようになるからだ。
また教える側の妙味は、聞いてくれる人々の好意と熱意のエネルギーをいただくので、
心が昂揚(こうよう=気分が高まる)し、少々の風邪の症状くらいは30分で消えてしまう。

熱い尊敬と、優しいうやまいのエネルギーが心地良く、丹田(たんでん=へその下辺り)に
たまってゆく。本当に、教えを受ける方にも、授ける方にも、すべての楽しみにまさる、
生きる充実感をもたらしてくれる。身を正し、物を売らず真を語り、
信を大切にして、先ず自分を正しく整える。
そうして、内なる光輝を静かなエネルギーに換えて興奮することなく

大声でしゃべることなく、
静かなことばを四方の隅々まで光に乗せて行き渡らせられるといい・・・。

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 21:05| Comment(0) | お釈迦様

2009年02月24日

欲望と坐禅


私は禅僧ですから、もちろん坐禅瞑想は怠り無く毎日します。しかし、なかなか自分の欲望や「自分はたいした者だぞ」という心を無くし切れません。だから、毎日坐禅をするのです。無くなれば坐禅などする必要はありません。

何故無くならないかというと、「欲望」というのは人間のDNAのプログラムだからだと思います。DNAの目的はただ一つ自分のコピーを作って存続し続ける事です。そのためには他を淘汰し続けなければいけません。他よりか勝っていなければならないのですね。だから私達は少しでも人に勝とう、上に行こうとするのではないでしょうか。逆に負けると悔しいし落ち込むのです。時には自暴自棄になったりします。

見方を変えると人間はDNAのプログラムでランしているコンピューターの箱みたいなものといえるかもしれません。お釈迦様は「DNAのプログラムでランしていると、結構苦しみだらけになるからプログラムをリセットしなさいよ。」と言っているのでしょうね。

じゃあ、「どうしたらリセットできるの?」というと、究極は私の知っている限りきっちりとした正師について坐禅瞑想するしかないように思います。坐禅をしたい方はどうぞコメントをお送り下さい。きっちりしたところをお教えします。でも、「坐禅はちょっと難しいかな」という方はこのブログに書いてある「心のトレーニングマニュアル」を実行されたら如何でしょうか。ずいぶん楽になると思いますよ。

合掌
仏光
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2009年02月23日

背負いきれない悲しみ

四苦八苦の中で一番悲しい出来事は愛する人との別れではないだろうか。
別れの中でも、わが子との死別ほど悲しいものはないと思う。

● 桂子さんは16歳の2月急性骨髄性白血病の診断を受けた。
それから18歳で旅立つ日までにインタビューで話された言葉の中から。

病気したおかげで、
人はずっと
生きてるわけじゃないっていうことに
気がついたっていうか。
それだったら、やっぱり、
それまで
どれくらいハッピーでいられるかが
勝負だろうなっていう気が、
今はする。
(1996年10月。雑誌インタビューで)



● 桂子さんが寝不足の母に語った言葉

眠れない時は、
今日あった いいこと、
15くらい思い出す
そうすると、
よく眠れるよ。

● 桂子さんが亡くなる前に両親に書かれた手紙

お父さん、お母さん、18年間育ててくれてありがとう。
二人の子供に生まれてきて幸せだったよ。
中2のころからずっと闘病して、ずっと心配かけてきたよね。
私は病気に負けないと思ってきた。ずっと。
でも治すこと、できなかった。
治せなくてごめんね。がんばったんだけどな。
ごめんね・・・・お父さん。ごめんね・・・・・お母さん。
ありがとう。ほんとうにありがとう。 立花敏伸氏HPより

私は、皆が一日無事で暮らせて行けたら本来それ以上は要らないのではないかなと思います。人間はいつかは必ず死にます。だから、今日皆無事に居てくれたら、それこそ本当にありがたいことです。無事で居ることが当たり前では無いのです。皆が元気にしている間にそのありがたさに気づきたいものですね。我が家は今日も皆無事に過ごすことができました。「ありがとうございます!」

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:47| Comment(0) | ありがとう、ありがとう

2009年02月22日

お前も「ろくなもんじゃねえ」ことを知れ

★ 人は、落ち込んだり有頂天になったり、中々心のコントロールができない。
この気分の起伏というものを何とかできないものだろうか ──。

● 解決策は簡単です。
落ち込んでしまうのは、自分が「大したものだ」と思っているのに、さほどの
評価を得られなかったからです。逆に有頂天になるのは、自分が「大したものだ」
と思っているところに「大したものだ」「素晴らしい」と賞賛を浴びるからです。

どちらも同じ心の状態がそういう心の起伏をつくっているということになります。
その心の状態とは、「自分が大したものである」「ちゃんとしたものである」と思う
ところから始まっています。

自分が「大したものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」
と心を定めることができたら、人間はとても楽に生きることができます。
人間はもともと不完全で不十分で未熟。やること為す事完全にはできず、
ミスばかり。そういうものの積み重ねの結果として人間があるのだと思います。
「たいしたものじゃない」「ろくなものじゃない」「ちゃんとしたものじゃない」
と思うことができたら、非難されても否定的なことを言われても
落ち込むことがなくなるでしょう。

落ち込む人、同時に有頂天になっている人というのは、
すべて「自分の力がなかなかのものである」と思っている
ところからキテイルに思います。もしかすると、
その心は驕(おご)り、高ぶり、傲慢(ごうまん)というものに近いものかもしれません。

本当に謙虚になると、落ち込むことも
有頂天になることもなくなるような気がします。

小林正観氏著「ただしい人からたのしい人へ」より


★ もしも愚者が、自ら愚であると考えれば、すなわち賢者である。
  愚者でありながら、しかも自ら賢者だと思う者こそ愚者である。  (釈迦)

★ 「我必ずしも聖(ひじり)に非ず。彼必ずしも愚に非ず。
  是れ共に凡夫(ぼんぷ)なり」

と聖徳太子はいわれました。人間の争う原因は常に、『相手より自分のほうが正しい』
『相手より自分のほうがすぐれている』という発想なのである
自分が相手の立場だったらどうするだろうかと考えた時、そこには争いも
起こらずまた、怒りも起こらない。そしてそのためには、

『自分が必ずしも相手より優れているわけでもなければ、正しいわけでもない』
という反省と、自分は愚かである という自覚が 前提としてなくてはならない。
という教えである。立花敏伸氏HPより

私も昔は傲慢で本当に「ろくなもんじゃねえ」と言われても仕方が無い人間でした。財力があり、社会的地位があり、人を無意識のうちに見下して、本当にろくなものじゃなかったです。今から思うと心からに恥ずかしいですね。でも、今完全に「自分は大したものだ!」という思いがなくなったわけではないと思うのです。調子が良くなるとすぐに慢心したりしているのではないかと。

人と比べず、自分は「大したものじゃねえ!」と言い聞かせ、言い聞かせ、実践して生きて行きたいものです。その時に自分の「自我」が少なくなっているのでしょうね。道は長いけど一歩一歩です。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 18:21| Comment(2) | 人生を楽に過ごす方法

2009年02月20日

仏様の物差し

私達は人間関係で悩み苦しみます。相手に対して、
憎しみや怒りを覚えることもありますが、人は、
それぞれにエゴイズムに基づいた物差しをもっています。
われわれはそのような利己的な物差しは捨ててしまって、
仏様の物差しでものを見なくてはなりません。
というのが仏教の教えです。しかし、人間の物差しを
完全に捨ててしまうことはできません。そんなことを
すれば、わたしたちはこの現実社会で生きてはいけません。
でも、かといって、人間の物差しだけでよいかといえば、
それは違います。わたしたちは人間の物差しのほかに、
仏様の物差しを持ちなさいというのが、仏教の教えです。
仏様の物差しは 慈悲のこころ を持った物差しです。

今私たちに一番欠けているものではないでしょうか。
自分と同じと思うから、相手の言動が気にいらないと
傷ついたり悩んだりするのです。みんな、それぞれの
心の世界が違うということが解ると、相手を責める気持ちは減少します。
自分が成長していく過程において、
その時々にふさわしい善き人達との出会いがあります。
すべての出会いは、自分を成長させていく上で
大切な人たちです。

※慈悲心・・・相手を思いやる心 立花敏伸氏HPより

本当に「人間万事塞翁が馬」です。良いと思っていた人が豹変したり、嫌な人とも人生の中では遭わなくてはなりません。でも、そのお陰で学ぶことも多いでしょう。
私は「自燈明、法燈明」という言葉を嫌だなと思う状況の中で学びました。「人を頼りにするな、自分を頼りにせよ。仏法を自分の行く道の拠り所とせよ。」ということですが、自分が人を頼りにして嫌な目にあって、苦しんだ後に初めて知識ではなく肌身で分かったことです。こうなると嫌だなと思っていた人は、私が気づいた瞬間から私の恩人になりました。

もちろんその人はそれに気づくすべも無いでしょう。でも、私にとっては大変大きな悟りでした。だから良い事、悪い事などは無く何に対してでも感謝なのですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:44| Comment(2) | 人生を楽に過ごす方法

2009年02月19日

荷物を捨て、楽しく人生を散歩しよう

釈迦はいう(こよなき幸せ)
尊敬と謙遜(けんそん)と適当な時に教えを聞くこと、耐え忍ぶこと、
ことばのやさしいこと、諸々の道の人に会うこと、
適当な時に理法について教えを聞くこと、これがこよなき幸せである。

いつも、いつも、ずーっと年を取って90歳になっても、謙遜しまだまだ・・・」
いちからやり直しと反省して生きると幸せであるという。自分より若き人にも、
年を経た人にも、同年の人にも、能力があって、心澄んだ人に
尊敬の念を持つのは幸せであるという。
そして、いつも迷いの森にとどまらないように、光る足である人の教えを聞いて、
道を踏みはずさないことは幸せである。心が落ちつかない時、
何か心があわてふためいている時、そして、時に落ち込んだ時に、
理法についての教えを聞くことは こよなき幸せ であるという、
なぜなら、道の人の歩んだ後を歩けるからである。

釈迦はさらに教えについていう。
「この世で教えをよく説き、多く学んで、何物をも、持たない人は楽しい。
見よ、人々が何物かを持っているためにかえって悩んでいるのを。
重い荷物を捨てたあとは、荷物をさらに受けるな。荷物を投げ捨てることは楽しい」

釈迦の教えを聞いて人生の荷をトラックから降ろし、出来る限り地位や名誉や財産も
名声も投げ捨てて、何も持たなくなると楽しいという。
貧で、威張るものを持たない時は楽でいい。
何か地位や賞讃にふさわしい家や態度や高級車を持つのは大変である。

人生の散歩は手ぶらが楽しい。人生の旅も、インドの旅もリュック一つが楽でいい。
北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より引用 立花敏伸氏HPより

私も含めて、なかなか自分の財産、地位、生活に対する執着は捨てられないものです。でも、執着を捨てれば楽だろうなと思います。お釈迦様は皇子の地位と生活を捨てられ出家しました。当時の出家とは頭を丸めて寺に入るような甘いものではなく、一気にホームレスになることですよ。一般の人が出家するよりよほどすごいことだなあと思います。
でも、捨てることにより絶対的な心の平安を得られたのですから、地位や財産を握り締めて不安や悩みにおののいて生きているよりよほど幸せですね。絶対的な安心以上の幸せが何処にあるでしょう。捨てることはできなくても、できるだけ少なくシンプルにすることは私にもできそうです。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:21| Comment(4) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

誕生という事実が産む「老」「病」「死」

めでたき言葉『親死 子死 孫死』

一休禅師は、ある時信者の一人から、
「和尚さま、家の宝にしたいと思いますので、何かめでたい言葉を
書いてくださいませんでしょうか」 と頼まれた。
「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた一休さん、さらさらと、
『親死 子死 孫死』と達筆に書いて渡した。それを見た信者は、
かんかんになって、
「私は、何かめでたい言葉といってお願いしたのに、死・死・死とは何事ですか」と
怒りをぶちまけ、まさにその紙をやぶり捨てようとした時、 一休禅師は静かに、
「ほほう、それでは何か、お前のところでは、
『孫死 子死 親死』の方がめでたいのかな」と言ったということだ。

門松は 冥土(めいど)の旅の一里塚
めでたくもあり めでたくもなし

と詠(よ)んだと言われる 一休禅師らしいエピソードである。

『生まれたものは 必ずいつの日か死ぬ』 という事実

ところで人間が死ぬというのは、一体どういうことなのだろう。 さまざまな宗教や
哲学が、それこそさまざまな解釈をほどこしている。 全く宗教などを
信じていなかったものも、突然親や恋人を失ったりすると、 急に死について
関心を示しはじめる。しかしながら、経験的に死後の世界を知っている人間が
一人もいない以上、 少なくとも実証することはできない。ただ一つだけ
人間にわかっていることは、 『生まれたものは必ず死ぬ』 という事実である。
死ぬことが本人にとって苦しみ であるかどうかは別にして、その人に愛情をかけてきた家族や 知人友人にとって、 大きな苦しみであることは確実である。
にもかかわらず、実際に家族を失う までは、なかなか実感がわかないのだ。
もっとも、自分や家族がいつ死ぬか、 ということばかり気にしていては 
一日だって安心して生きていけない。
それでは、人間はなぜ死ななければならないのであろうか。答えは簡単である。
『生まれたから』なのである。

『祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)諸行無常の響きあり』と述べられているように
『生まれたものは必ず死に、作られたものは、いつかは壊れる』

のが、この世の絶対的事実なのである。そして、そのことを知っているのは
恐らく 人間だけだろう。果たして他の動物は死を知っているのであろうか。
確かに、 生命に危険がせまると、ほとんどの動物は本能的に逃げるか、
攻撃することに よって自らの生命を守ろうとする。
しかし、知識としてあらかじめ 人は死ぬものであるということを知っているのは、
人間だけだといってよかろう。 それなのに、その原因が生まれたという事実にあることをほとんど意識しない。
『ハッピーバースデー・ツー・ユー』 と歌ってもらい、バースデーケーキに
立てられた、年齢と同じ数のロウソクの火を消すことが、
死ぬ日がそれだけ 近づいたのだ、
ということを確認することだということに気がつかず、
単に、 成長し進歩したことの喜びとしている。
時たま人間は、何か逆境にたった時、
「俺なんか生まれてこなけりゃよかったんだ。いっそのこと死んでしまおうか」
と思うようなこともあるが、そうでもない限り、苦しみの根本原因が
『誕生』 にあることまで考えないのだ。
もっとも、まわりから祝福されて 生まれてくるか、あるいは、
仕方なく生んでもらうかという違いはあるが、 それは本人の全くあずかり知らない
ことである。近頃のように、 生んだ子を殺して地中に埋めたり、
ロッカーの中に投げ入れたりする母親が 増えてくると、少なくとも
人間として生まれたものは、少しは祝福されて いるとも言えそうだ。
しかし、胎児を堕胎手術によって抹殺する親は、前述の 子殺しの母親を批判する資格はないことだけは、肝に銘じておいて欲しい。

※諸行無常(しょぎょうむじょう)とは
「諸行」とは「およそこの世に存在するすべて」という意味であり、「無常」とは
「常でない。永久不変でない。同じ状態にとどまらない」の意である。
つまり「諸行無常」とは、「およそこの世に存在するもので、
同じ状態にとどまるものは一つもない。常に変化してやまない。
永久不変なものは一つもありませんよ」ということである。
立花敏伸氏HPより

人間の死亡率は100%で、お互い絶対死ぬ運命なのです。「オギャー」と生まれた赤ん坊が、大臣になるのか、学者になるのか、犯罪者になるのかは分かりませんが、その赤ん坊に関して生まれた段階で確実に分かっている事は、その子がいつかは「死ぬ」ということです。

どうせお互い死ぬ運命ならば、もっと仲良くしましょうよ。もっと楽しく暮らしましょうよ。もっと一日大事に生きましょうよ。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 00:54| Comment(2) | TrackBack(0) | 明日死ぬと思うと・・・・

2009年02月17日

夢と欲の違い

夢とは・・・・多くの人と共有するもの

欲とは・・・己個人の持つ自分だけに利益があるもの

成功者は必ず「欲」ではなく、「夢」 を持つ。

自分も他人も勝つにはどうすればいいのか?

自分だけが勝つ図式だと短期的には、伸びるのだが
長期的には敵をたくさん作ることになり、結局は堕落していくことに繋(つな)がる。

「夢」 を持つことというのは、
言い換えれば 「多くの人との幸せを願う行為」 であり、

「欲」 を持つことというのは、
言い換えれば、「自分だけの幸せを願う行為」 なのかもしれない。

現在「夢」ではなく、自分だけの「欲」を考えすぎる人が多いから
この世界がうまく回らなくなったのだと思う。

夢を持ち、全員で幸せになることを願えば、

ちゃんと全員が幸せになるための
スペースはこの世にちゃんと準備されている気がする。

なのに、多くの人が自分だけが勝とうとする・・・

そういう間違いに気付いてもらうためにも、
欲を捨て「夢」を追いかけて、大成功して「夢」の大切さに気付いてもらいたい。


「頭を使わない人は」
 ↓
「頭の良い人に使われる」
 ↓
「頭の良い人は、お金のある人に使われる」
 ↓
「お金のある人は、夢のある人に使われる」

だからこそ、夢を持つ人は、多くの人に影響を与える事ができる。

・・・・・自分が苦しかった時、心の支えになったのは「夢」でした。

     夢のお陰でどんな困難も、耐えることが出来た。・・・・・   立花敏伸氏HPより

私達は得てして自分の欲望の実現を「夢」と呼んでいるのではないでしょうか。「自分はこのようになりたい。」「こんな生活をするのが夢だ。」とよく言います。しかし、多くの場合は自分の欲望を実現したものを「夢」と呼び、自分の栄華を描き、そこに多くの人の幸せを願う心は余り感じられない場合があります。
多くの人の幸せに通じるものが、やはり「夢」と呼ぶにふさわしい願望であると言えます。もう一度自分の「夢」を見直してみたら気づくことも多いかもしれませんね。

合掌
仏光
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2009年02月16日

開運への道

人はだれでも幸福を願っている。だからこそ自らの
運命を開拓しようとし、その方法を講じようとするのである。
「文字の霊があなたの運命を左右する」と聞けば、
驚いて姓名判断へと走り、「あなたの幸福のカギは、あなたの手筋にあらわれている」と教えられればあわてて手相術を研究しようとする。
家相、人相、占星、方位、改印など、みなそのたぐいであるが、
はたしてこれらのものが、己の運命を開拓してくれるであろうか。
ある人はこれを疑い、ある人はこれを信じ、ある人は真っ向から
これを否定しようとする。
一体、これは信ずべきことなのか、それとも信ずべからざるものか…と詰問されれば、「わたくしには、わからない」と、答えるほかはない。昔から「当たるも八卦(はっけ)当たらぬも八卦」といわれているが、
これは言いかえれば「所詮はわからぬもの」
ということにほかならない。だが、わからないからといって、
「そんなバカなことが……」と否定することはできないであろう。
わからない…ということは、否定も肯定もできない
神秘の世界だからである。それでもなお、ひとびとはわからないままに「どうしたならば……」と神秘の扉をたたき、
開運の道を知ろうとするのである。

仏教での「開運の道」としての教えは

運命を変えたくば、「 陰徳を積め」 と教えているのである。

「陰徳」とは、かくれた徳である。人にみせびらかさない
善(よ)い行いのことをいう。自分はこういう善いことをしたなどと得意がり、人にみせびらかしては、たとえそれが善いおこないで
あっても、決して陰徳とはいえないのである。
どんな小さなことでもよい、人から喜んでもらえるようなことをして、ただ、もう、うれしくてならないのが陰徳なのである。
陰徳は、火にも焼けず、水にも流されずにのこっていく、
それはちょうど、池の面(おも)に投げられた小石が、
美しい波紋を描くように、どこまでもどこまでも、
大きく広がっていくように……。

観相中興の祖と仰がれた水野南北翁は『南北相法』を著して
人相の見方を教え、またのちに『極意修身録』では、
「ひそかにその食をへらし、常に腹八分にし置く人は、
たとえ凶(わる)い相の人であっても、
しだいにその相を変え、相がよくなるにつれて運命も必ず
開かれていく」と断言しているのである。

  「諸々(もろもろ)の飯食(おんじき)を受くる事、
      当(まさ)に薬を服するが如くすべし」と、

『遺教経』に説かれていることばであるが、
ひそかに食をつつしむこともまた、大きな陰徳である。


陰徳と 腹八分は、まさに

 「開運の道しるべ」である。 立花敏伸氏HPより

日本では「人の迷惑にならない人間にならなくてはいけない。」と子供に教えますが、インドでは違うみたいです。インドでは子供たちに「貴方が生きていくことは既に周りに迷惑をかけているのですよ。」と教えるらしい。なるほど、私たちが一生、生きていく間に、どれほどの牛肉や豚肉。何羽の鶏、何匹の魚を食べているのでしょう。これだけでもすごく周りに迷惑をかけていますよね。

だから、少しでも迷惑を減らすために腹八分目、おかけしている迷惑を少しでも償うために陰徳を積む事が必要かもしれません。と言うよりかは、「自分が生きていくという事は、既にこの地球で色々周りにご迷惑をおかけしながら生かさせて貰っているのだ。」という気づきと自覚が、謙虚に生きる気持ちを生み出すのではないでしょうか。そのような生き方をしている人になるほど不幸は訪れませんね。どんどん幸福になっていくことでしょう。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:30| Comment(4) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年02月15日

苦難は幸せの前半分

苦難とは

大病をした、災難、寝たきりの親の介護をずっと何年もしてきた、
大変な苦労をしたなど・・・・・・・・を体験した人です。
その体験のおかげで、何事もない、当たり前の日々が
淡々と過ぎていくことがどれほど幸せか、ということに気がついた人々です。
そういったつらい思いをしたことによって、普通に生活できることがどれほど幸せかを、感じることができます。例えば、捻挫をして
一週間歩きにくくなったことによって、治ってから普通に歩けるようになったことが、ものすごく幸せに感じられます。このように、
病気や事故や災難ということをとおして、
幸せの本質に体験的に気がついてしまう人が1パーセントいます。
その人たちは、何かを手に入れなくても幸せを感じられるようになったので、
ものすごく幸せで ラッキーな人 、と言ってよいでしょう。

では、その幸せを感じられる理由となった病気や事故や災難やトラブルは、
不幸なことだったのでしょうか ? その答えは、それは不幸などではなくて、
「幸せの前半分」だったということです。大病をしたことと、
そこから回復して幸せを感じられることとは、ワンセットになっていた。
それで、闘うこと、抜きん出ること、人と争うこと、比べることが、
自分の人生の中になく、ただ、普通に歩けること、普通に食べられること、
普通に話ができること・・・
すべてが、ありがたくて ありがたくて 手を合わせることができる、
「今のままで十分幸せだよね、必要なものは全部いただいている」という
ことに気づいてしまった。自分も、目の前の相手も、今のままで すでに
100点満点であると思えるわけです。99パーセントの人は
何かを手に入れなければ幸せを感じてはいけないと思い込んでいます。
ところが大変な苦難を経験した人は苦難のお陰で、
このままの状態で満足、ただただ幸せだと感じられるようになったのです。

その1パーセントの人は自分に必要なものはすべて地球や宇宙から
与えられていること、どんなに自分が恵まれていて、
生かされているかということに気づいてしまった人です。
その1パーセントの人は「夢も希望もない」暮らしをしているのです。
この1パーセントの世界に来た人は、今の瞬間から幸せを感じることが
出来ます。しかし、残りの99パーセントの世界の人は、
何かを手に入れなければ幸せを感じてはいけないと思い込んでいます。
この洗脳から解き放たれて、執着がなくなった人 を「ほどけた人」と呼び、
それが「ほとけ」の語源となりました。「執着」から
解き放たれていない人たちが、99パーセントの世界の住人ということです。
心の花園5
小林正観氏「悩みをゼロにする」より引用 立花敏伸氏HPより

苦難こそ幸せを感じるためのスタート地点なんですね。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 19:04| Comment(6) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法

いのちのたくましさ

人の欲望は底知れぬもので、財を築いた人はさらなる富を求め、容姿に恵まれた人は
もっと美しくと、果てのない幻を追い続けます。しかし、しょせんは幻ですから
満たされることがなく、得体のしれない不満を抱えたまま
生きていかなければなりません。私もそうでした。
ベビーブームの真っ只中で生まれ、他人と競い、抜きん出ることばかりを考えながら大人になったのです。勉強をして良い大学に入り、一流企業に就職をして裕福な家庭を築くことをめざして生きてきました。
ですから自分の子供にも多大な夢を抱いていました。
ところが、長男は出産時の事故で脳に大きな傷を受け、
重い障害を持って生まれてきたのです。歩くことも、立つこともできません。
話すことも、笑うことも出来ないといわれました。

人口呼吸器を着け、身体中をチューブやコードで覆(おお)われたわが子を見て、途方にくれました。痛々しい姿が可哀想(かわいそう)で、いっしょに死んでしまおうかと心が揺れたこともあります。
息子の障害を受け入れることのできなかった私は、その障害を治すことばかりを考えました。「効果があるらしい」と言われる訓練や治療を求めて日本中を飛び回り、
なんでも試しました。しかし、障害が治ることはなく、
それどころか息子の体調は日増しに悪くなっていったのです。
過度のストレスによる悪性症候群。
ものを言うことができない息子の、必死の抵抗だったのかもしれません。
ようやく目が覚めました。重い障害を持ちながら、
懸命に生きようとしていた息子の生命の芽を、
愚かな母は、摘み取ろうとしていたのです。
障害や病気を持ちながら、それでも生まれてくる生命は、
人一倍たくましい生命なのだと 気づきました。そんな尊い生命が、この世に在(あ)るということが、何よりも大切なことなのです。
私の祖母は明治の終わりに生まれ、
大正、昭和を経て百年の時を生き抜き、昨年他界しました。早くに夫を亡くし、
小さな染物工場を女手一つで切り盛りしてきた祖母は、
嫁いだ母が苦労するほど、仕事にもお金にも厳しかったそうです。
ところが、その祖母が数年前に心臓の疾患で倒れ、一命はとりとめましたが、
重い認知症を患うこととなりました。厳しく口うるさかった祖母は、一変しました。
毎日ニコニコと穏やかに笑ってばかりいるようになったのです。
ほとんど話すこともできなくなりましたが、なぜか「ありがとう」だけは
口にします。朝起きると「ありがとう、ありがとう」、
粗相(そそう)をして怒られた時でさえ、
手を合わせて「ありがとう、ありがとう」と感謝の言葉を吐くのです。

そんな祖母の介護を厭(いと)う人はいませんでした。
家でも病院でも、祖母は誰からも
好かれ可愛がられます。「いいボケ方をしたねえ」と、うらやむ人もいました。
ただ、私には、祖母が本当は何もかも分かっているのではないかと
思えることがありました。
以前の祖母より、たくましく生きているような気がしたからです。ニコニコと笑いながら、
したたかに生きている。そんな強さを感じたのです。
欲を捨て、怒りやねたみや驕(おご)りなど、心にまとわりついた垢(あか)のような
鎧(よろい)を剥(は)ぎ取ることで、生命のたくましさは
輝きだすのではないでしょうか。
息子は8年と7ヶ月、自分の命を守りつづけました。
「もうだめだ」と何度も言われながら、
最後の最後まで自分の命を自分の力で守り抜こうとしたのです。その姿に、
私たちはどれほど多くの力や勇気を与えられたことでしょう。
この世に生を受ける喜びと、その生命を、ただただ、精一杯生きることの素晴らしさを、
息子は教えてくれました。
祖母や息子の残してくれた、たくましい生命のカケラを心に留め、自分自身の人生を、
謙虚に、たくましく生きたいと思っています。

女優 石井めぐみ 第5回心を育てる会 平成20年6月2 日より

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 01:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年02月13日

木の根の話

木の芽が顔を出す 同時に地中では木の根も少しずつ伸びている
その伸び始めた木の根が 大きな石にぶつかった
完全に行き先を阻(はば)まれた状態だ。

しかし、木の根は諦(あきらめ) ない
上手にその大きな石の形に沿(そ)って根を伸ばして成長する
そして ついには大きな石を抱え込むように
しっかりと根をはる。 木は日一日成長していった。

突然ハリケーンがやってきた
強い風が何度も吹き付け大雨が降って地表の土が流される

しかし木はしっかりと大地に根を下ろしている

「大きな石よ ありがとう 私は必死であなたにしがみついて根をはった
あなたのお陰でしっかりと根をはることが出来て 風にも水にも負けなかった」

「木の根よ こちらこそ ありがとう あなたが私にしっかりと
巻きついてくれたお陰で 私は土と一緒に流されずに済んだ」
と互いに感謝し喜んだ。

木の根は「こんなところに石があって邪魔だ」と不平を言わず
石を上手に利用する形で 互いに共存共栄した。マイナスを見事に
プラスに転じ、お互いがお互いを生かし合ったのである。

◎ 老子の教えの一つに"上善は水の如し(上善如水)"というのがあります
「上善」とは、最も理想的な生き方 のことで,
"最も理想的な生き方は 水のあり方 のような生き方である"との教えです。

1.水は入れる器に従って、実に柔軟にその姿を丸くしたり四角くしたりして合わせる。
2.水は人が好まない低い位置へ低い位置へと流れていく。
3.水はものすごいエネルギーを秘めているということである。

洪水ともなれば、木や家も流してしまう。 つまり,水の持つ大きな三つの要素
柔軟性・謙虚・秘めた力 を身につけることの重要性を説いたものです。

「柔軟に心を養い、人の嫌がる低いところにさえも身を置くことができる謙虚さを持ち、
時に応じては何者にも屈さない秘めたる力を蓄えなさい」という教えのようです。      
第2話 第2回 心を育てる会より

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:57| Comment(4) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年02月12日

苦しいまま苦しみから救われる

●「苦しみ」をタマネギの皮をむいていくように除く法
愚痴に覆われ、快楽を追い求めると、人生は苦になります。
「論語」に自分には厳しく、他人に寛大であれば、怨みごとから離れられる。
とあります。
あの人がこうした、この人がこうだと、他の人を怨みに思っている限り、
自分の心は辛く苦しい状況が続きます。その時、他の人に寛大な心を持ち、
許していけば、いつの間にか自己の苦しみは除かれているものです。
苦しい時、一つひとつその苦しみにとらわれるから、苦しみはさらに増していくのです。
そのとらわれの思いを、ちょうどタマネギの皮をむいていくように取り除いていくと、
芯がないのと同じように、苦しみの障(さわ)りはなくなるのです。

苦しい中にあって、とらわれを除く ことによって、
苦しいままで苦しみから救われる方法です。

◎ 戦国時代の武将、上杉謙信公(1530年〜1578)の訓言に次のものがあります。

1 心に何も思わないときは、体はのびやかである
2 心に慢心があるときは、人を愛し敬う心を失う
3 心に欲なきときは、正しい道理を行う
4 心に私心なきときは、疑うことがない
5 心に怒りなきときは、言葉はやわらかである
6 心に勇あるときは、クヨクヨしない
7 心に忍耐あるときは、物事がうまくいく
8 心に貪(むさぼ)りなきときは、人に諂(へつら)わず
9 心に迷いなきときは、人を非難しない
10 心に誤りなきときは、人を畏(おそ)れない
11 心に曇りなきときは、心静かである
12 心に驕(おご)りなきときは、人を敬う

心にこのような知恵を生じた時、まさに「一切の苦を除く」ことが出来るのです。

私達は肉体を持っています。肉体だけならどうもないのでしょうが、
心に思いを生じることによって、のっぴきならない状況に陥(おちい)るのです。
むし暑い夜、床に入りますと、肉体が汗ばんできます。
すると、心が むし暑いなぁ と感受し、さらにこれでは眠れそうもない。
明日、睡眠不足では仕事に支障がありそうだと想念をめぐらせていきます・・。
暑さ寒さがないところとは
「寒いときは徹底して寒さになりきり、暑いときは徹底して暑さになりきることだ」
つまり、寒さ暑さから逃げるのではなく、寒さ暑さを そのまま受け止めていく ことです。
夏の暑さとはこんなものだと 雑念を打ち消していけば暑いままでいいのです。

公方俊良著 「心に響く般若心経」より引用 立花敏伸氏HPより

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posted by 仏光さん at 22:14| Comment(3) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年02月11日

苦しい時

本来の自己
人生で苦しいときは、「苦しい」という念が起きるのは当然です。
ところがその念に「自分だけがなぜ」「あの人が悪いからだ」
「もう自分なんかどうでもいい」という具合に、負の念を次々と
重ねてしまうところがあります。「自分はこうあってほしい」という
「わが思い」があるからで、「苦しい」という初念で止まらず、
迷い悩み出します。心は本来、何も無いのです。何も無いから様々なことに無心に反応できるのです。ただ日常生活でことに触れて起こる最初の思いの後に、すぐ「わが思い」に彩られた念が次々と起こります。
その念の連鎖で蓄積された妄念のあるままに物事に触れるようになり、自在に本来の心が働かなくなります。ただ「本来の自己」を真実、自覚することはよほど修行に徹しないといけません。

でもひとつ方法があるのです。最初の「苦しい」という念が起こったら、
「人生は苦しい時もあるのだ」と負の連鎖をストップしてしまう。
それができると、おのずと心のゆとりが生まれ、
今なすべきことがみえてきます。「本来の自己」に近づくことができるからです。

妙心寺派布教師 藤原東演

心安らかに生きるために
宗教とは、人間として生きるべき道を明らかにされたもので、
それを法といいます。何を行い、何をしてはいけないのかを学ぶものです。
それは、目に見えぬ神仏に敬意と畏(おそ)れをいだき、またそういう心が、悪に対してブレーキの役目も果たしてきたのです。
しかし、宗教に関心がない人が大多数を占めるようになった現在、
犯罪やいじめなどが増加していることはこれと無関係ではないと思います。
「仏の教え」をひとことで言えば「慈悲の心」といえます。
それは、相手の苦しみや悲しみがわかることです。
孔子も「己の欲せざる所は人に施すなかれ」と教えています。
「自分がされて嫌なことは、他人にしてはいけない」ということです。
誰も見ていないからいいだろうという自己中心の考えが、利己主義を
はびこらせ住みにくい世の中にしていきます。みんなが「慈悲」の心や思いやりの心 を持った時、そのままそこが、彼岸(ひがん=心安らかな)の世界となるのです。子供にお手本となる生き方がしたいものです。

福岡県・開運寺住職 池上寛道 (臨済宗妙心寺発行 「花園」 より引用 心の花園1)

何があっても、どの様な仕打ちを受けようとも「与楽抜苦」、人に楽しみを与え、人の苦しみを取ってあげる。これさえ忘れなければ結構幸せな人生を送ることができます。同じように相手に怒り争っていては、それこそ相手と同じ地獄の衆生として苦しみのた打ち回るだけです。いつも自分は「泥の中に咲く蓮の花」になりたいものです。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法

2009年02月10日

他人の過ち、自分の過ち

人は他人のあやまちを指摘したり、批判することは得意です。
人の行いはとくに気になるようです。しかし、人間の判断は人それぞれによってまったく違っているものです。生まれた環境や家族や国によっても違って来ます。ですから、人を批判したり、判断することは禁物です。
それに、自分の心を清らかにする仏教の目的のためには
逆効果になります。うわさ好きの人、人の批判ばかりする人は
皆から嫌われるだけです。
人の行為の善悪判断ばかりして自分の苦しみを増やす必要はありません。

仏教では他人を直すことはしません。
しかし、自分を直すことはできます。人の悪口を言い、
人を批判をすることは天につばするようなもので、すべて自分に
振りかかってくるのです。また、他人を変えようとすることは、
海の水をかい出すようなものなのです。そんなことは不可能です。
人はただ、自分のこころの状態を観て、これを徐々に清らかにするように心がけるべきです。自分の心の中に生まれる、欲、怒り、嫉妬、怠け、
などを観ながらそれを取り去ることです。自分の行動について鏡を見るがごとく良いか悪いかを見分けることです。
ありのままの心を観察すると、徐々に自分で自分の心をだますことなく、自我という殻が破れるようになり、
それによってすべての苦しみを乗り越えられるのです。
立花敏伸氏HPより





他人の過失を見るなかれ。

他人のしたこと、しなかったことを見る必要もない。

ただ、自分が何をしているのか、

していないのかを観察せよ。

          (法句経)
合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 職場の人間関係に悩んだら

2009年02月09日

辛い時・・・

辛い時は必ずあります。まあ、自分の心が「辛い」と勝手に決め付けているだけなのですが、そうは言っても辛いものは辛い。禅の老師クラスになるとこの「辛い」が本当に無いみたいです。いつも「大安心」。自分の心が自由自在なのですね。

私も含めて、皆さんも禅の老師ではないので、その「辛い」時の過ごし方、回復の仕方を工夫しなければなりません。私は、まず微笑むことにしています。それから「大丈夫、大丈夫」と「ありがとうございます」を念仏のように口の中で唱えます。

そういう風に過ごしていると、やはり「諸行無常」ですから状況が変化してきてその辛さが無くなっていきます。実際子供の頃から「辛い」事は何回もありましたが、その「辛さ」は時間とともに無くなっています。子供の頃の宿題を忘れて立たされた辛さを今も感じることはありませんよね。当たり前です。

という事は、今感じている辛さもいつかは無くなるのです。今は辛いけどいつかは無くなる。それまで「大丈夫」と「ありがとうございます」を連発して、目の前にある自分のしなればならないことに微笑みながら専念するのです。もう、その姿は既に誰が見ても辛い姿ではありません。何があっても微笑んで一生懸命働いている姿です。

微笑みながら一生懸命自分がしなければならない事をしていると、必ずいいことが起こるので、辛いことがいつの間にやら無くなるのです。

この世の同じ景色が心の置き所一つで、極楽にもなり地獄にもなるわけです。私はやはり地獄より極楽がいいので自分の心の置き所に気をつけています。

まあ、人生何があっても大丈夫ですよ。何とかなります。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 22:44| Comment(6) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年02月08日

慈悲の心

「優しいだけでは生きていけない。
でも、優しくなければ人間ではない!」

インドで貧民救済活動に一生をささげたマザーテレサの話です。いつものように、スラム街で貧民救済の活動をしていたマザーテレサに、ボランティアの一人が近くの家を指差して、「あそこのヒンズー教徒の家には8人の子供がいますが、父親が死んで母親一人で働きながら面倒を見ています。でも、もう3日間も何も食べていません。食べ物を買うお金が無いのです。」と伝えました。

マザーテレサは自分の家から鍋一杯のお米を持って来てその家を訪ねました。そこでは貧しい母親とお腹を空かした8人の子供が寄り添っていました。マザーテレサはお米を差し出しました。貧しい母親は涙を流し感謝してそのお米を受け取りました。

するとその母親は家にあった少し小さめの鍋に、そのお米の半分を分けて家を出て行こうとしました。マザーテレサは「お米を持って何処に行くのですか?」と尋ねました。母親は「隣のイスラム教徒の家には6人の子供がいますが、もう4日間も何も食べていません。だから頂いたお米の半分を持っていってあげるのです。」と答えて、大事そうにお米の入った鍋を抱えて喜んで隣の家に入っていきました。

これは本当の話です。私はこの話を知った時、涙がこぼれて止まりませんでした。自分たちでさえぎりぎりの状況にいるのに周りの人の事まで心配し、限られた量のお米を半分にしてまで持っていく。何と豊かな心なのでしょう。何と綺麗な心なのでしょう。人間とはここまで素晴らしい慈悲の心を持つ事ができるのですね。

私は、毎日十分食べるものがあり、それでも思い通りにならない事があると不平不満が心に芽生えてきたりします。自分が本当に辛い時、同じように辛い思いをしている周りの人を思いやる心があるか?自分の食べ物を喜んで半分人に差し出せるか?自分を振り返った時、自分の心の貧しさに唖然としました。

私の心は、このインドの貧しい母親の心の足元にも及びません。同じ人間として生まれたのなら、生きている間に私はこの貧しい母親のような心を持とうと自分に誓いました。

合掌
仏光
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posted by 仏光さん at 23:34| Comment(4) | TrackBack(0) | ありがとう、ありがとう

2009年02月07日

自分の人生を生きる

普通私達は自分は自分の人生を生きていると思っています。でもよくよく考えて本当にそうでしょうか。案外多くの人が、他人からの自分の評価を気にして生きているように思います。だから、他人の目が気になります。つまり他人の評価が気になるのです。

そうなると、もう自分の人生ではなく他人から評価されるための人生になってしまいます。私も昔そのような事を悩んだ時期もありました。今となれば懐かしのですが「いったい俺は何のために生きているのかなぁ?」と結構真剣に悩んだものです。

結局生まれた時から、親から、親戚から、学校から、社会から他人との比較の中で評価されて育ってきているので、評価されて生きるのが当たり前だと思っているのですね。そして評価されないと落ち込んだりグレたりする。「みんなそうやっているのだから、それが社会なんだ」と思っているのです。まあ、普通それで一生終わってしまうのですが、考えてみればそれもつまらん話です。せっかく自分の人生が与えられているのに他人の評価を気にして生きて終わりでは、自分の人生なのに自分が主人公になっていないと思えるのですね。

「貴方は何のために生きていますか?」と聞かれて「ハイ私は他人に良い評価されるために生きています。だから、他人から高い評価を得ると嬉しくて、評価が低いと落ち込みます。」では本当につまらん話です。案外、芸能人や政治家は他人からの評価がイコール人気であり票の獲得であり、それが生きる術で自分の存在価値ですから他人の目を気にして生きる人生になります。だから自分の評価が落ちそうなことは隠れてこそこそやります。まあ、それは芸能人や政治家だけではありませんし、また、中にはそうでない普通の人も多く居られると思います。ただ、やはり評価のために生きている人間の割合はどうしても多くなりますね。

多くの人は自分が自分の人生の主人公でありたいと無意識の中で願っているのですが、他人の気に触って、集団からよけ者にされるのが怖いから自分を抑えて生きているという感じを受けます。それは学校でも会社でも役所でもそうで、「それが社会なんだ」と思って生きているのです。

お釈迦様は生まれた時に「天上天下唯我独尊」と言われました。「仏がどこか天上にいるのではない。本当は貴方たち一人一人が仏なんだよ」と。ただ、これは相当修行を積まないとなかなか実感できないことです。禅の生き方とは、どの瞬間でもどの様な場所でも自分が自分の主人公になる生き方です。それができるように修行するのです。

「自分が自分の主人公になるとやりたい放題でわがままな生き方になる。そうなると社会が成り立たない」と言った人が居ました。自分が自分の主人公になるという事は、自分の欲望に引きづり廻され欲を満たすために自分さえよければよい生き方になる人が多いのかもしれませんね。とんでもない話です。そういう人は周りの目があると良い子にしているが、誰も見ていないと好き勝手にやるという情けない生き方になります。

お陰さまで私は他人の評価が全くと言うほど気になりません。そうかと言って決して他人を邪険に扱うこともありません。できる限り親切にさせてもらっています。それは「他人に自分を良く思ってもらいたい。どう見られているのか心配だからやる。」という評価のためにしているのではなく、本当にその人に幸せに思ってもらうとこちらも幸せを感じるからしているだけで、これは大変気が楽でありがたいです。

ただ、そのようにしているとどうしても独善や独りよがりになっていく可能性があります。「自分は善の心でやらせてもらっているのだ!」というのも自我(エゴ)なのですね。

禅の修行でありがたいのは、自分の先生である老師からいつもこっぴどく叱られて、へとへとになるまで坐禅をして、精も根も尽き果てて、「私は良い事をしています。」みたいなくだらんちっぽけな自我も取り除いてもらえることです。もちろん入門したての初心者にはそのようは事はありませんが、修行が進むに連れて厳しく指導されていきます。こういう修行は結構辛そうに見えます。しかし、心が普段の生活の中で安楽になっていきますから、やっている本人は面白いですよ。

一度自分は本当に自分の人生のために生きているのか、無意識のうちに他人の評価のために生きているのか、一生が終わる前に振り返って考えてみるだけの価値はあると思います。まあ、考えなくてもいつか一生は無事終わりますけど。

合掌
仏光

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posted by 仏光さん at 23:47| Comment(5) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる

諸行無常

諸行無常とは仏教の言葉で「全てのものは変わりゆく」という意味です。これは真理ですね。この宇宙に有るものは全て変化していきます。変化にかかる時間は違えども、全てのものは移り変わっていきます。

私たち人も生まれてから死ぬまで常に変化していきます。昨日の私と今日の私はもう既に変化しています。同じでは無いのです。という事は、極端な話、1秒前の私と今の私とは既にもうどこか違っているのです。私は自分の母親の臨終の時、母の手を握って横についていましたが、息を引き取る前の母は生きていて、息が止まった瞬間死んでいました。一秒前は生きていて、一秒後は死んでいたのです。

お釈迦様の教えはこの「諸行無常を自分のものとして悟れ!」と言っています。「全てのものは変化していくのに、変化するものに対して執着するな!」という事です。子供の頃は「早く大人になりたい」と思う人が多いのですが、大人になると「いつまでも若くいたい」と願うようになります。要するに常に変化していく自分の体に執着心が起きるのです。その執着心のために、時が流れて鏡で自分の姿を見るたびに心が右往左往する人が多いのです。だから、アンチエイジングの商品がよく売れています。

若くいたいと思うこと自体、私は極自然なことだと思います。それはそれでいいのです。しかし、「それに執着するな」という事です。執着した瞬間から「苦」が始まります。これは別に自分の姿形に限られることではありません。

もし、自分がまあ順風満帆の人生を歩んでいるとします。この場合の順風満帆とは自分の思った通りの結果が得られているということにします。人間の愚かなところはこの順風満帆の人生が永遠に続いてもらいたいと、執着しだすことです。執着心が起こった瞬間から、次はこの順風満帆の人生を失う恐怖心が起こります。順風満帆であればあるほど、それを失う恐怖心は大きくなります。そして心が右往左往しだして「苦」が始まるのです。

分かりやすく言うと1万円を持っている人は、1万円を失う恐怖心で済みますが、100万円を持っている人は1万円の人より100倍失う恐怖心が大きくなります。1万円でも100万円でもお金に執着が無い人には、それを失う恐怖心は存在しません。

私は順風満帆の人生ならばそれはそれで結構なことだと思います。しかし「諸行無常」を自分のものとして感じていれば、そのこと自体に執着することなく、一日一日自分のできることに全力を尽くし、自分が今日出会うあらゆる人にできる限りの親切を尽くす様になります。明日自分が死ぬかもしれないことが実感できますから。そのような生き方の中に失う恐怖心は存在しません。結果がどうであれ、それが一番順風満帆な人生といえるでしょう。

逆に、今辛い時期を過ごしている人が居るとすれば、それほど気にする事は無いのです。どうせ宇宙の真理は「諸行無常」です。あらゆるものは変化するのです。辛い時期もいつかは状況が変化して行きます。「朝が来ない夜は無い」のです。思い通りになってもならなくても気にしない、気にしない。何と言ったって「諸行無上」ですから。気にしている閑があったら、目の前のことで何か一つ人に喜んでもらえることでもしましょうや。

合掌
仏光


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posted by 仏光さん at 01:48| Comment(5) | TrackBack(0) | お釈迦様

2009年02月05日

お釈迦様の弟子プンナ

お釈迦様には何人もの弟子がいましたが、「説法第一」といわれた弟子がプンナです。ある日プンナはお釈迦様に礼拝してから西方の未開の土地に布教に行きたいと申し出ました。

しかし、その土地に住む人は気性が荒く凶悪である事で有名でした。
お釈迦様は「もしその土地の人がお前を罵って辱めたらどうするのか?」と聞きました。

プンナは「たとえ罵っても私に石を投げつけないのだから良い人達でしょう。」と答えました。

お釈迦様は「それでは石を投げつけてお前をやっつけようとしたらどうする?」と聞きました。

プンナは「たとえ石を投げつけても、刀で斬りつけないのだから良い人達でしょう。」と答えました。

お釈迦様は「それでは刀でお前を殺めたらどうだ?」と尋ねました。

プンナは「私の命を絶ち、私をこの世の悩み苦しみから解放してくれるのだから良い人達だと考えます。」と答えたのです。

お釈迦様は「よくそこまで耐え忍ぶ心を学んだ。そのような心で布教をすれば、きっとお前はその人達を正しい道へ導けるだろう。」とプンナの西方への布教を許しました。

このあとプンナは布教の旅に出て、殺されることも無く500人の弟子を得て西方の未開の土地で自分の寿命を全うしました。

合掌
仏光

P.S.
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posted by 仏光さん at 23:58| Comment(2) | TrackBack(0) | お釈迦様

2009年02月04日

蒔いた種の通りに芽が育つ

    播(ま)いた種に応じて果実を収穫する。           善(よ)い行ないをした人は、良い報(むく)いを得る。      悪い行ないをした人は、悪い報いを得(え)る。 
                      (釈迦)

きゅうりの種を蒔けばきゅうりができる。トマトの種を蒔けばトマトができる。人間は善行の種を蒔けば、良い事が自分の人生に返ってくる。悪行の種を蒔けば、悪いことが自分の人生に返ってくる。こんな事は昔から言われてきたことですが、なかなか自分が調子のいい時にできないのが善行なのです。寄付など周りから善行に見てもらえる事はするのですが、本来の善行はなかなかするようにはならないのです。

人生追い風の時は、たいがい「これくらいは許されるだろう、大丈夫だろう。バレないだろう」とちょっとした悪行をしてしまうのです。そして自分も自覚しないうちにそれがどんどんエスカレートしていきます。まあ、自分は調子がいいものですから、周りの人の注意にも耳を傾けません。「自分が正しいから、このようにうまく行っているのだ」と思ってしまうのです。

自分が調子のいい時は人の苦しみ悲しみなんか余り気になりません。「苦しい、悲しいのはそいつの努力が足りないのだ」 くらいにしか思いませんから。会社であれば部長、役員や社長、国家公務員であれば局長や政務次官になって景気もよく権勢が振るえるようになると、隠れたところでちょろちょろ悪行を始めて行きます。そして、社会的地位がありますから、「私は立派な人間です。貴方たちとは違ってこのように素晴らしい人生を歩んでいます。」という顔をして世間で過ごすようになります。

もちろんこのようなことを表に出す人は少ないです。表立っては謙虚に見せながら、内心自分でも気づかないうちに「まあ、自分は自分のお陰でうまいこといっているな」と思いながら過ごす様になるのです。そしてそのうまいこと行っている自分をさりげなく人に見て欲しい、その差を認識して欲しいという表に出さない欲望も出てきます。

ところが、いったん退職したり、会社の調子が悪くなって来ると今まで積んできた悪行が自分に向かって一気に返ってきます。通常何倍にもなって返ってくることが多いです。大体、世の中の有名人、政治家、企業トップのスキャンダルなんていうものはこの類のことが多いです。

マスコミに出る出ないは別として、調子が悪くなって来ると必ず自分の悪行が自分に返ってくるでしょう。お金を求めていた人はお金を失い、有名だった人は人気を失い、権勢を求めていた人は周りに見向きもされなくなる。

やはりある意味「天」は公平にできているのです。だから一時の見かけはどうであれやはり善行の種をこつこつ毎日蒔いていると幸せとなって返ってくるのでしょうね。

「人を嫌うと嫌われる。人を好くと人から好かれる。
人を怒ると、人から不評と文句がかえってくる。
善意を与えると次の善意がうまれて心に喜びが生じる。」

これはやはり真理でしょう。だからほんの少しで良いのです。目立たなくても良いのです。お互い毎日毎日、ささやかな善行を積んで行きましょうよ。どうせ限られた時間しか人生を生きられないのだから、悪いことをして時間を使うよりは良い事をして時間を使うのです。ずーっと前に私達が「おぎゃー」と生まれた瞬間はみんな「善」だったのですから。 

合掌
仏光

 
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posted by 仏光さん at 14:23| Comment(2) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる

2009年02月03日

川の流れに身を任せ

仏の教えは中道の教えです。中道とは、極端に走らずに、
ゆったりとした道を歩むことです。寝食を忘れて、
死にもの狂いになって修行をするのは、あまりにも極端すぎます。
かといって、怠けているのは駄目です。そういう極端を避けるのが中道です。
中道というものは、楽しみながら歩むことだといえるでしょう。
たとえば、山を登るのも、あせらずゆっくりと景色を楽しみながら、
山にはえている植物を観察し、 昆虫を眺めながら登るのが中道です。
ここに一本の材木が大きな川に流れ出ました。この材木が両岸に近づかず、
沈むことなく、人にも取られず、渦に巻き込まれないなら、
ついには海に流れ入ります。この材木のたとえのように、物事にとらわれず、
「信は任すなり」 の境地で、人生の流れに身を任せて生きるならば、
苦しみや迷いのない清らかな中道の生活を送ることになり、
遂には彼岸の地 浄土(仏界)に到達することでしょう。
とらわれないとは、執着しないこと、握りしめないことです。

執着心を起こすと初めの内は楽しいようでも、たちまち迷いの生活となり
様々な苦しみをもたらします。しかし、此の世の中の人々は身分や富の多少にかかわらず、金銭のことばかりにこだわり、
お金がなければ無いで苦しみ、あればあるで苦しみ、心が安まるときがありません。お金のために自殺する人もいます。自殺しなくとも、
生きるとは死への旅なのです。…………
人生はレンタル、私達のすべては仏様から無料で預かっているだけです。
身も心も、生きている時間さえも。…………
とらわれない心は、仏の教えを信じることにより授けられます。
悲しみが有れば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがあります。
悲しみも喜びも越えたところが、とらわれのない世界です。
★「 信は任すなり」 とは、

    己を捨てて神仏にすべてをお任せするという意味である。
                 立花敏伸氏からのお手紙より

「人事を尽くして天命を待つ」。ただ、何もしないで神仏にお祈りしても何も起こらないでしょうね。自分がしなければならないことは一生懸命する。結果は天に任せるより仕方がないと思います。もし思い通りの結果が出なくても、自分のやり方に何か十分でなかったことがあるのではないかと見直して、改善するだけです。一々落ち込む事はありません。落ち込んで結果がよくなるのであれば、どうぞ落ち込んでください。しかし、そんな事は決して無いので、落ち込んでいる閑があれば、自分の感情を入れずに改善に改善を重ねることです。

どうせいつかは死ぬのです。私は常々、「どうせ死ぬ者同士ならば人間もっと仲良くしたらいいのに」と思います。皆さん、生きていられる時間をもっとプラスに使いましょうや。

合掌
仏光

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posted by 仏光さん at 22:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 暗いままの明るさに生きよ

2009年02月02日

「人間本来無一物」

禅ではよく「人間本来無一物」という言葉が出てきます。「お前が生まれた時は、裸一貫で何も持ってこなかっただろう」という意味です。
私たちは毎日自分の損得で心を右往左往させていることが多いです。遺産問題で身内が骨肉の争いをするのはよく見たり聞いたりする話です。
しかし、よく考えると本当に自分の物って有るのでしょうか?自分には家がある。車がある。体がある。心がある。と普通に思っているのですが、何か人生で破産など重大な事件が起こると、家や財産は無くなってしまいます。自分が悪くなかっても、取引先が倒産したり、不渡り手形をつかまされたりする事はよく有ることです。

自分の体にしても事故に遭ったり、病気で不自由なることも世の中では日常茶飯事に起こっています。これは、私にもいつ起こってもおかしくは無いのです。たまたま、今のところまあ無事に過ごしているだけです。

この世のもので本当に自分のものがあるとすれば自分の思い通りになりそうなものなのに、自分の体ですら自分の思い通りにならないのです。

自分のものと思っていても、もっと思い通りにならないのは自分の心です。「もう決して家族には怒りの感情を持たないぞ!」と誓っても何かあると怒りの感情がメラメラ湧いてきます。「もう決して人を恨まないぞ!」と思っても、ハッと気がつくと恨めしく思っていることも多々あります。

要するに自分のものと思っていても自分の思い通りになるものは何一つ無いのです。有るとしても、思った通りになっているように今のところ見えているだけです。いつ何時どうなるのか分からないのです。

なぜなら、これらはみんな借り物なのです。この世に出てきた時に、色々な因縁で自分が借りているのです。じゃあ、誰から借りているのか?私は「天から借りている」と思うようにしています。自分がこの世で自分らしく生きていく小道具として、天が自分に貸してくれたと思うようにしています。

不思議なことにそう思うと、自分の思い通りにならなくてももともと貸していただいているものだから仕方が無いなと思えます。そして、もともと何一つ持たずにこの世に出てきた自分に、無条件で貸していただいたものは大事に使っていこうという気持ちも起こります。もし、何かあって自分から取り上げられても、もともと借りているものですから無くなっても文句を言う筋合いは無いのです。「自分が一生懸命働いて手に入れたものだから、これは自分のものだ!」と思いがちです。しかし、まず、一生懸命働ける体や頭脳、才能をただで貸していただいたお陰で、それを元手にして稼いでいるのです。

こう考えると自分に与えられたものはコップ一つにしてもありがたく思えます。もともと裸一貫で何も持たずに生まれてきたのですから、毎日飢えることなく御飯がいただけて、屋根の下で眠ることができ、大きな病気もせず、それなりに一日が終われば、もうそれだけで感謝ですね。だから朝起きただけで「ありがとうございます」と感謝できます。

よく考えると、自分を周りと見比べて、自分には無いものばかり追いかけている人が多いのではないでしょうか。「人間本来無一物!」を自分のものにすれば、それはもう自分に与えられているものに本当に感謝の念が生まれてきます。それどころか、「もう十分頂いています。ありがとうございます!」とそれまで自分が思っていたよりずっと自分に与えられているものが多かったのだということに気づきます。

「小欲知足」とは足るを知るという意味ですが、それは本当は欲しいけど自分の欲望を抑えろという、我慢の意味ではなく、「人間本来無一物」を自分のものにして、与えられたものに自然に感謝の念が湧いてくるということだと思います。

合掌
仏光
posted by 仏光さん at 23:39| Comment(2) | TrackBack(0) | ありがとう、ありがとう

2009年02月01日

波があなたを運んでくれる

いい時もあれば、そうでない時もある。
毎日の時間は、人生は、そんなことの繰り返しだと思います。
自分の努力で、短期間のうちに何かが変わる時もありますが、一方で、人の力ではどうしようもならないこともあります。
だから、わたしは「今は、流れがよくないな」とかんじても、特別何をしようとか、こうすればいい、とは考えません。
ただ「いまはそういう流れなんだ」と意識するくらいです。
でも、だからといって何もしないわけではありません。「いい時期ではない」と思いながらも、目の前にあることを確実にこなすことに集中します。
「よくないこと」ではなく「できること」に意識を持っていくのです。
そうすれば、何かの拍子に流れが変わった時、すぐ動き始めることができます。
それに、目の前のことをきちんとできていなければ、チャンスが訪れた時、その機会をうまく生かすことができません。


● しあわせの源は、自分の中にある

常に思っているのは「原因がなければ結果はない」ということです。
いい原因であれば、自然といい結果に 結びつきます。
だからたとえマイナスの力があったとしても、それを上回るプラスの力を自分につけて いい原因を起こそう、起こしていけるようにしようと思うようにしています。
それは、自分でできることは、それくらいのことだからです。
けれど、そう考えられるようになるには「自分を信頼する」ことが前提です。
「それくらいのこと」しかできないけれど、そこには確かな力が必要です。
蒔(ま)いた種は、いつか刈り取る時期がやってきます。
もし、マイナスの種ばかり蒔いていたら、いずれは、そのマイナスでできたものを刈り取ることになります。
だから、同じ種を蒔くなら、しあわせな種、いいエネルギーの種を蒔くようにしたいと考えています。そのことを忘れないでいられたら、 その時が「いい時期」でも「そうでない時期」でも、どちらでもいいのかもしれません。
本当のしあわせの源は、最終的には、自分の中にあるからです。
好転するかどうかは、その時の自分が 慌(あわ)ててどうするかではなく、以前からの自分がどうしていくかで決まっていくのではないでしょうか。


● 蒔いた種を刈り取る時 

自然を相手にしている人は、そうしたことを感覚的に分かっているように見えます。
自分がやりたいと思っていたことや描いていた夢が、大きな自然のエネルギーによってかき消されてしまうことがあります。
その時できることは、そのエネルギーを見つめ、通り過ぎるのを待つ。
そして過ぎ去ったら気を取り直し、再び動き始める。それだけです。
大事なのは、そのことを受けとめることと、次に向かうエネルギーを持つこと。
そして、自分にできることをやっていくことです。
生きていくことは、 色々なことを学んでいくことだと思っています。
学ぶことは、いいことや勝ちつづけた結果だけから得られるものではありません。
いい時も、そうでない時も、流されずに、よくない思いを持たずに生きていく。
そうした気持ちでいることが、本当の学びではないでしょうか。
とりあえず自分のできることをして、 あとは、空を見上げて深呼吸をしてみる。
それくらいの余裕を持っていられるのが理想です。
いつか、蒔いた種を刈り取る時、その選択が、よかったのかどうかを知ることができます。
その時が、自分が何を学び、何にしあわせを見出し、どんなものを手にしたかを確かめることができる時です。
サーフィンをしている知人が、こんな話をしてくれました。
「いい波の時は、何もしなくてもその波が岸まで運んでくれる」とても好きな言葉です。
ほとんどのことは、そんなふうに進んでいくのだと思います。
そして、その日の波がどんな状態かは、海が決めてくれます。

PHP 703 12月号より



● ここに一本の材木が大きな川に流れ出ました。

この材木が両岸に近づかず、沈むことなく、人にも取られず、渦に巻き込まれないなら、ついには海に流れ入ります。
この材木のたとえのように、物事にとらわれず、「信は任すなり」の境地で、人生の流れに身を任せて生きるならば、苦しみや迷いのない清らかな生活を送ることになり、遂には彼岸の地 極楽浄土に到達することでしょう。

心の図書館B 「川の流れに身をまかせて」 より


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posted by 仏光さん at 00:00| Comment(3) | TrackBack(0) | 波があなたを運んでくれる