2009年01月31日

暗いままの明るさに生きよ

般若心経の教えの一つに 「暗いままの明るさに生きよ」 という教えがあります。

主婦であるK子さんの話をしましょう。
毎週開かれている ある講座に いつも影のごとく来て、影のごとく去っていく女性でしたが ある時こんなことを講師に、問い詰めてきました。
「先生、私は死にたくなりました。もう生きていても目の前が真っ暗で生きていくことが辛いんです。 こんな状態でも死んではいけないんでしょうか」
K子さんは、子宮ガンと誤診されて宿していた子供を堕ろしたうえに、抗がん剤の副作用で目が不自由となり、髪の毛も抜け、余命もそれほどない とのことでした。しかも夫がよく愛してくれるだけに、彼に自分の惨めな姿を見せたくない、と思いつめて自殺を考え始めたようでした。
先生が「死んではなにもなりませんよ」と言うと、
彼女は「なぜ死を選んではいけないのですか書いてください、ここに理由を書いてください!」と先生の目の前に紙を突きつけて迫ってきたのです。
先生は咄嗟(とっさ)のことで何を書こうか迷った末、詠み人知らずの古い俳句を書きました。

 磯までは海女も蓑(みの)着る時雨かな

彼女はこの俳句をじっと見詰めていました。先生は次のように説明したのです。
海女さんは海へ入って貝を採るのが仕事ですから、体は濡れてしまうのです。
しかし、どうせ濡れると分かっていても雨の日は海辺まで蓑を着て、自分の体を大切にするのです。厳しい仕事が待っているからこそ、ぎりぎりまで体をいたわ り守ろうとしているのです。
「あなたも自分の体を大切にして、最後のその日まで一生懸命に生きなくちゃだめだ」
そう言うと、K子さんは声を上げて泣き始め「残酷です」と、より一層大きな声を上げて泣き崩れました。ところが、 K子さんはその俳句を何日も見続け、読みつづけたそうです。やがて彼女が再び訪ねてきて、
「私、九十いくつかの寄る辺のない、寝たきり老人のヘルパーになろうと思うんですけど、どうでしょうか?」
と、相談してきたのです。聞けば、そのご老人も前途を悲観して自殺を企てたそうですが、未遂だったのです。
「生きている間は、自分にできると思うことはどんな小さなことでもやってみる事です」
と、先生はK子さんにヘルパーになることを勧めました。
彼女は五十代で、相手のご老人は九〇歳を超えているのですから、親子ほどの 年齢の開きがあります。死を決意したほどのご老人ですから、生活態度は暗いのです。彼女が話しかけてもなにしに来た、というすげない態度でとりつく島がありません。でもK子さんは根気よく通い続けて助言しました。
やがて半年ほどして年が明けて正月が来ました。すると、その寝たきり老人から 年賀状が届いたのです。彼女はよほど嬉しかったのでしょう、先生に見せに来たそうです。ご老人は不自由な片手で絵を描き、しかも一言 書き添えていました。

あなたのお陰でやっと 「おめでとう」 が言えるようになりました ありがとう

K子さんも、この年賀状を機にたいへん明るくなったのです。生きていればいろんなことがあります。何があっても 人生を悲観して自殺を企てるなどとんでもないことです。

どうにもならんことはどうにもならんのだ。
それより今の自分になにができるのだろうか。

逆境にいるときに、こんな問いかけを自分自身に投げかけてみると、意外に「やるべきこと」が見つかり、明るさが見えてくるものなのです。

立花敏伸氏HPより


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー


posted by 仏光さん at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 暗いままの明るさに生きよ

2009年01月30日

人間の煩悩

人間は百八つの煩悩(ぼんのう) をもっているといわれます。

毎年、年末にお寺で百八つの除夜の鐘を鳴らして煩悩を払いますが 一夜あければ再び煩悩がわいてきて、いつまでたっても煩悩から離れられないのが人間です。苦しみの原因はこの「煩悩」です。


◎煩悩とは何か

煩悩とは欲望、怒り、愚痴 (道理をわきまえない愚かな心・わがままな心の事)など迷いや苦しみの原因となる 心のあり方 をいいます。
人間は煩悩から離れない限り 迷いの世界すなわち、六道を輪廻(りんね)し続けるのです。


◎六道輪廻(ろくどうりんね)とは何か

六道とは 地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界の六つの境界をさします。
地獄界・餓鬼界・畜生界を最も悪い状態であるとして、三悪道といいます。
修羅界・人間界・天上界を三悪道よりは良い状態ですので、三善道といいます。
人間は、これらの六つの境界の一ヵ所 にじっとしていることはなく、あちらこちらと迷いの世界をぐるぐる輪廻し続けるというのが六道輪廻です。

例えば今お金が儲かって天上界のよろこびにあっても、明日は不渡り手形をつかまされて大損をし、地獄の苦しみにあるというように、良いことだけということはあり得ず、たえず変動している不安定な人生であるということです。実はこの六道というのは喜んだり、悲しんだり、怒ったり、苦しんだりする人間の心の相を表しています。
それは今よろこんでいたとしても、一時間もすれば怒っていたり、
あるいは悲しみにうちひしがれているというように、さま変わりを演じます。
常にコロコロ変わるので コロコロが転じて 「こころ」 になったともいわれます。
愚かであるから、儲かると思って手を出しては失敗し欲があるから金を求め、異性を求め、物を求め、喜んだり、憎みあったり、悲しんだり、さまざまな心を描き出すのです。
六道を総称して 「地獄」 といいますが、まさに、人間は煩悩から離れない限り、地獄から抜け出すことは出来ないのです。
欲とは、オレが、オレのためにという 「自我の世界」です。


◎欲が欲を生む

お金や物を所有すると、これでよいと満足することはありません。
お金の無いときは100万円あれば幸せだと思いますが、100万円貯めると、それだけでは不満に思えてきて、次は200万円、1000万円とさらに大きなもの、一段と高いものをめざすようになります。
これが、欲が欲を生むという現象で止まることを知りません。
このような現象を、仏教では迷いというのです。
人間は生まれ、やがて死んでいきます。
従って人の一生を生死といいます。
人間は生まれてから死ぬまで、欲の連続ですから 生死(しょうじ) のことを 迷い と意味づけられています。
マイホームを買い、別荘を買い、自動車を買っても、それらの幸せを得たら、今度はより上を望む心(欲)が出てきたり、失いたくないという不安(執着)につきまとわれる ことになります。
「所有と比較と競争」 という価値観の中からは、決して永遠の幸せは得られないのです。

すべての苦しみは心によっておこり、心に支配される。
我々は心に支配されることなく心を支配しなくてはならない。

立花敏伸氏HPより







ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー
posted by 仏光さん at 11:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間の煩悩

2009年01月29日

皮一枚への執着

仏教の修行法のひとつに、『不浄観』 とよばれるものがある。
人間として生きることに執着したり、異性を貧ることから離れるためには、
いかに人間というものがけがれていて 汚いものであるかということを
認識すればよいのである。『女の色気はいつまで続くのか』 と息子にきかれた
年おいた母親が、だまって火鉢の中の灰を火箸でかきまぜているので、
『あー灰になるまでか』 と息子が気がついたという話がある。
人間というものは、どうもいくつになっても色気は残るもののようである。
いい年をしたヒヒ爺が、二十代の若い女を妾にしたりするのが、
何も小説の中だけの話ではなく、現実にそこらへんにごろごろしていることである。
もしこの世に、男女の区別がなく、単細胞生物のように、細胞分裂によって
生殖がすむとすれば 苦しみの方だって結構減るのではないかと思われるほど、
この世界では、男女問題で苦しんでいる人間が多いのも事実なのである。

残念ながらこの世に男女はある。しかもお釈迦様もキリストの神様も、
『汝姦淫するなかれ』 と仰せられているし、お釈迦様の方は、
『出家者は、異性に対する欲望を断ち切って、全く男女関係を持ってはいけない』 と
まで仰せられた。
『こりゃ何とかしなきゃならん』 ということから 考え出されたのが、
前述の 『不浄観』 なのである。アバタもえくぼとばかり、
この世に女はこの人しかいないとのぼせあがり、女神のように思っている彼女でも、
毎日九つの穴から汚物をたれながし 今でこそ若いが、やがてあと 三十年もたてば
くそ婆か鬼婆となり もうあと何十年かたてば、死体になって腐っていく などと
観察してゆけば、だんだんと異性に対する欲望が なくなってゆくというのである。
見合いをする時、本人を気に入るのはもちろん大切だが、その結婚生活を
長続きさせようと思ったら、その人の母親をよく観察すればよい、とよく言われる。
今はけっこう美しいが、それは若いからであって、 あと何十年かたつと、
確実にこの母親のような婆さまになる。それでも俺は我慢できるだろうか と
考えるわけである。同じことは男性側にも言えるが、女性というものは
深慮遠謀型が多いせいか、男の外側 よりも、内容(ただし、財産、学歴、職業、
給料、家柄といった別の意味の欲望の対象にしか過ぎないが)の方を
重視するので、あまり外見の方は 気にしないようだ。考えてみれば、
いくら素晴らしい絶世の美女や美男子でも、毎日眺めていれば やがて飽きがくる。
外見の美貌にばかりとらわれる男の方が、 浅はかかもしれない。

昔はほとんどが土葬であったので、恐らく埋葬されたあと、何日か何十日かたって、
野犬か何かに墓地をあばかれ、腐った死体が食い荒らされ、
うじが 無数にわいている姿を見る機会がよくあったと思われる。
現代だって、殺人や自殺の場合、同じ現象は起こるし、解剖用に病院の地下の
薬品プールに浮いている死体だって、似たようなものである。
このように考えてくると、自然に異性に対する欲望が なくなるというのだが、
本当にそうだろうか。事実は逆である。前述の 『アバタもえくぼ』 とは
よく言ったもので、一度思いこむと、不浄観なんてくそくらえ ということに
なりかねない。人間というものは、なかなか真実に目を向けようとしない。
生まれたものは必ず老化し、やがていつの日か死んでゆくのである。
別の言い方をすると、
人間の死亡率は百パーセントなのである。 だが、だれしも人間は、
自分だけは特別だと、知らないうちに思い込んでいる。
他人の眼くそ鼻くそは汚くても、自分のものは汚いとは考えていないのである。
だからこそ、いくらお釈迦様が 

 『人生は苦である』
 『人間の存在は不浄である』
 『異性に対する欲望を断て』

と仰せられても
『人生は楽しいし、女はきれいだ』 と思いこむ。そこに、
実は落とし穴が あることを 知らない。どんな美女も、皮一枚はがせば、
中にはドロドロした 肉と血と汚物だけだ、と言われてみても、
なおかつ人間は、その皮一枚に  執着するし、執着させようとする。
まず、この 『美人は皮一重』 であると いう事実を知っても、
なおかつこの 『一重の皮』 に執着するのが人間である。
立花敏伸氏HPより

頭では分かっても普段の生活ではなかなか徹底できないのが男女関係でしょう。修行でもこれが一番無くせない煩悩だと思います。多分ずっと無くならないでしょう。
それは我々の細胞内にあるDNAの一番の目的が、自分のコピーを作って存続する事だからです。このDNAのプログラムは無くすことはできません。ただ、諸行無常の本質を理解することで美人だ男前だと、外側の皮一枚のことで心を右往左往する事は無いかもしれませんね。

合掌
仏光

ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 08:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法

2009年01月28日

釈迦の教え 刹那主義 (せつなしゅぎ) とは

★ お釈迦様が弟子に、こう聞かれました
「お釈迦さまは神通力にすぐれ、人の前世や来世が
見えるとの事ですが、私の前世は何でしょうか?」
お釈迦様はこう答えたそうです。
「そんなことは考えなくてよいから、今日(こんにち)
ただ今、この刹那(せつな) を大事にして生きなさい」
★ お釈迦様が使ったこの刹那(せつな) というのは、
今の一瞬一瞬のこと。現代では「刹那主義」といえば
「今さえよければ後はどうなってもいいと思うこと」
との意味ですが、本来の「刹那主義」とは
「一瞬一瞬を 大事にして生きる」 ことです。そして、
今、目の前の人を抱きしめること、その人に最大限
自分の笑顔を向けること、「私の」持っている言葉と
して温かいもの、人をやさしい気持ちにするもの、
思いやりに満ちたもの、励ますもの、勇気付けるもの、
どんなにひどいことをされても、心を安らげる
言葉遣いを実践することです。
★ 人間が本当に心の底から幸せを感じられるのは、
喜ばれた時です。喜ばれると嬉しい。
喜ばれる存在になることが価値ある人間です。
立花敏伸氏HPより

私たちにとって本当に確かなのは今しかありません。次の瞬間は不確かなのです。実際にテレビを見ていると色々な事件や事故、災害が毎日起こっています。秋葉原の事件も記憶に新しいですね。誰があの日、秋葉原に行って自分が事件に遭うと思っていたでしょう。

このように人間には次の瞬間自分がどうなるのかは分からないのです。だからこそ今を大事に生きるのですね。次の瞬間は私にも分かりません。私はもし次の瞬間死ぬのであれば、その前の瞬間まで人に喜ばれる存在でありたいと願っています。

合掌
仏光

ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー


posted by 仏光さん at 22:58| Comment(2) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる

災難にあう時は

良寛さんも実在の禅僧ですが、その逸話にはほのぼのしたものがいつも伝わってきます。村の人からお米やお金を貰う托鉢に出ても、機織の音が聞こえてくる家は、仕事の邪魔をしてはいけないと黙って通り過ぎたりしていました。家の人が人の気配に気づいて「もしや良寛さんでは・・・」と外に出てみると歩いて去っていく良寛さんがいます。「良寛さーん!」と追いかけてお布施をしようとすると「邪魔をしてごめんなさい。ごめんなさい!」と言いながら走り去っていくのです。本当に人の心の境涯としては高い高いところに居られたのだと思います。

さて、その良寛さんに親戚の人が「災難に逢わない、何かいい方法がありますか?」と手紙で尋ねてきました。すると良寛さんから返信が来て次のようなことが書いてありました。

「災難にあうときは災難にあうがよく候 

死ぬときは死ぬがよく候 

これはこれ災難をまぬがれる妙法にて候」


災難に逢ったら、災難に逢えばいいのです。
死ぬ時がきたら、死ねばいいのです。
これはこれで災難から逃れる良い方法ですよ。
と、言っておられます。

なるほどこれはひつの見方だと思います。何か自分に都合が悪いことが起こると普通じたばたじたばた、それからなんとか逃れようとあくせくします。しかし、このじたばたしていることこそ「苦」なのです。もともと災難とは自分の心で「これは災難だ」と認識した瞬間から自分にとって災難になるのです。

災難とは自分にとって都合の悪いことですが、宇宙単位で見ると何も貴方のため、私のためだけに宇宙や地球が存在しているわけではありません。地震や台風などの現象はただそこで起こっているのです。じたばたせずにその場で自分ができることを最大限すればいいのです。それ以外に何もできませんから。オロオロ嘆き悲しんで何もしないよりかはマシです。

私は若い頃世界中を飛び回っていましたので、色んな目に逢いました。内戦に巻き込まれて銃弾が飛び交う中を逃げ回ったり、イスラエル空軍に爆撃されたり、サハラ砂漠の中で乗っていた自動車が故障して死にかけたり、憲兵隊に追いかけられたり、地雷原の中に迷い込んだり、乗っていた飛行機のエンジンが火を噴いて着陸事故にあったり、ショットガンで尻を撃たれたり、何回も死にそうな目に逢いました。

実際そういう目に逢うと、ただ状況に必死に対応するだけで「災難だ」なんて考えている余裕はありません。「災難」とは有る程度時間の余裕があって「これから大変なことになるのではないか」とか「死ぬかもしれない」とか「どうしよう、どうしよう」と色々不安に思ったり悩んだりしている中に有るのではないでしょうか。思わなければ「災難」などは存在しないのです。

我々はどうせ生まれた瞬間からいつか死ぬ事はもう決まっているわけです。何も今さら慌てることはたぶん無いのでしょうね。

合掌
仏光


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー


posted by 仏光さん at 00:32| Comment(2) | TrackBack(0) | 良寛さん

2009年01月27日

相手を元気付け、励ます言葉を語れ

釈迦はいう
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみ語れ、
それこそ善く説かれたことば。
好ましいことばのみを語れ、そのことばは人々に歓び迎えられる。
真実は実に不滅のことばである。偽りを語るな。

釈迦が教えられた時代から2500年の時間を経、私たちは生活がすっかり変わってしまった。
車があり、テレビがあり大きな船があり、空も地上も、海の上も、人々は風のように飛び走り、
すべる。食べ物も、遠い何千キロも離れた国の春の野菜も口に出来る。
昔、見たこともない、聞いたことない物も、誰もが口にし、目にし、
耳にすることが出来るようになった。今、子供たちは着る物に困ることなく、
食べ物に飢えることなく住む所に困らず、いってみれば何一つ不自由しなくなってしまった。
今、私たちの日本は平和で穏やかなはずなのになぜか、
苦しんでいる人のなんと多いことか。
嘆くことが癖になっている人は、しっかり戒めをもって、

「好ましいことばのみを語れ」といわれる釈迦に従ってみるといい。

きっと、あなたの心のレベルに応じて、周りの人々や、仕事の内容や、
相手が変わってくることを体験することになる。では釈迦のいわれる、
好ましいことばとはどんなことばであろう。

釈迦の時代から生活レベルも、情報レベルもすっかり変わっても、
好ましい人から歓び迎えられることばがある。それを考えてみよう。

人を励ますことば
その人の魂を高めるようなことば(祈りのことば)
その人の運を高めるようなことば
その人を健康にするようなことば
病気が治るようなことば、傷みと苦が軽く、そして苦がなくなるようなことば
否定的なことば や、傷つけることは私たちの 運気を削ぎ、苦と悩みをもたらす。
このことを知って、良きことば、良き例えをいつも口にするならば、歓び迎えられる。

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より

死する事生きるが如し

良寛さんのところに、ある夜のこと一人の泥棒がしのびこんだ。
部屋中をごそごそ探しまわっているが何も見つからない様子。
良寛は、始めから目を覚ましていたが、起きたら泥棒にとって都合が悪かろうと
知らん顔をしている。泥棒は、何にも盗るものがないと気がついて、
「何だ何だ。この家には何もありゃしないじやないか。全くのくたびれ損だわい」と
つぶやいた。そこで良寛さん。ごそごそ起き出して、
「これこれ泥棒さん。まことにすまんことじゃがこの家には、
わしが寝ているこのふとんしかないのじゃ。これでよかったら持って行きなさい。」
びっくりした泥棒は、それでもふとんをまるめて持って行こうとした。
「誰か人に見られたら困るだろう。さあわしが戸を開けてあげるから、早く帰りなさい。
今度来る時までには、何かよいものを探しておくからね」
泥棒を送り出したあと、ふと空を見上げると実にきれいな月が出ている。
そこで口に出たのが、
 盗人の とり残しけり 秋の月
人間は何か執着するものを持っているからこそ、それを盗まれるのが
恐ろしいのである。物があれば物、金があれば金、それを盗まれるのが恐ろしい。
特に生命をとられるのが、最も恐ろしいのである。
ところが、執着すべき何ものをも持たぬものにとっては、盗られるものもないわけで、
恐怖心が起こるわけがない。すなわち、『死する事生きるが如し』 と徹底できた人には、
死の危険すら恐怖の対象ではなくなるわけである。

  むけいげ
とは、まさに何ものにも執着する事がない状態であり、
したがって、『無恐怖』であるのは、まことに当然なことであろう。
永遠でないものをいかにも永遠であるかのように錯覚したり、
苦しみの原因であるのにいかにも楽しみであると感じたり、
わがものなどあるはずがないのに我が物と執着する
─こういった誤った考えから離れることができるのは、
まさに正しい智慧、すなわち、『般若』によるのである。

宮本武蔵は、一生のうちで、一度も剣術の試合で負けたことがなかった人として
有名である。だが、生涯に一度だけ、勝つことの出来なかった相手と対したことがある。
それは、まだ未熟な一剣士であった。だがその若者は武蔵と剣を交えた時、
しずかにすーっと眼を閉じてしまった。
身体中スキだらけでどこからでも容易に打ち込めそうにみえる。
ところが、いくら時間が経過しても、武蔵はどうしても打ち込むことが出来ない。
なぜなら、相手ははじめから死ぬことを覚悟しているのである。
そして、心を相手の剣のみに集中し、もし切られたら、その瞬間、思い切り剣を
ふりおろすことだけを考えている。
剣術の場合、自分が切られた瞬間だけは、間違いなく相手は自分の身近にいる。
したがって、自分は殺されても、相手の身体のどこかに自分の剣を触れさせることは
できるはずだ。
すなわち、『身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあり』 と言われるように、
死を恐れない相手に対しては、いかに剣道の達人でも、自分が生き続けたいと
願っている場合には、たとえ相手がいくら未熟であっても、無傷で勝つことは
できないのだ。それを見極めた時、武蔵は、静かに剣を引いて立ち去ったと言う。
死を恐れなくなった時、世の中のすべては、それまでとは完全に別の価値を
持ったものになるのであろう。
経中に出てくる 『涅槃』(ねはん) という言葉であるが『入涅槃』という言葉があって、
お釈迦様が亡くなった ことを意味するようになったのでいかにも、死ぬことを
指しているように受け取られ勝ちである。実は、ニルバーナという梵語の音写である
この言葉の意味は 吹き消した状態ということで
あらゆる煩悩の火が吹き消されたこと を意味する。

すなわち、われわれが死を恐れるのは、死と生とを区別し、生はのぞましく 
死はのぞましくないと考えるからである。 『死すること生きるが如し』という
境地に到達すれば、生と死とには何の差別もないのである。
それは、こちら側に煩悩の対象であるこの世の存在や現象に執着する欲望が
なくなったからでそれこそを『涅槃』とよぶのである。
そしてこの涅槃が、仏教が目的としている最高の境地であり、その状態に
達したものを『仏陀』とよぶ。仏教というと、いかにも複雑難解な宗教と
おもわれ勝ちだが、それは手段や実践法の違いがそうであるだけで、
最終目標は、この仏陀になることであるということだけは忘れないで欲しい。 立花敏伸氏HPより


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 00:19| Comment(2) | TrackBack(0) | 良寛さん

2009年01月26日

心はどこにある?

達磨さんは実在の人物で、インドから中国に禅仏教を伝えた人です。正確には菩提達磨と呼ばれています。達磨大師が中国に来た時、最初に弟子になったのは慧可という人でした。慧可はなかなか達磨大師の弟子にしてもらえず、ある日、自分のひじから先を切り落として、道を求める決意を達磨大師に示してやっと弟子にしてもらいました。

ある日、慧可が「私は修行にいそしんでおりますが、どうにも心が不安で落ち着きません」と大師に言いました。大師は「そうか。それではお前の心をここに持って来なさい。俺が安心させてあげよう。」と答えました。

慧可は一生懸命自分の心がどこにあるのか探しましたが、どうもはっきり「何処に有る」ということが分かりません。散々考えた挙句、「私は私の心がいったい何処にあるのか分かりません。」と大師に言いました。達磨大師は「ほーら、俺はお前の心を安心させてやったぞ!」と答えました。

これは少し分かりにくい話ですが、我々は普段「心が痛い。」「心が疲れた」「心が晴れた」などと言っていますが、、「じゃあお前の心は何処にある?出してみろ!」と聞かれると「何処」ということははっきり答えられません。「じゃあ、お前には心が無いのか?」と言われると、はっきり「心は有る」と断言できるのです。

このはっきり何処にあるのかも分からない、姿形も見えない「心」というものに、毎日振り回されて右往左往しながら私達は生きているのです。

じゃあ心は何処にあるのか?どんなものなのか?

もちろんそれは見えるわけも無いのですが、私はこういうことだと思っています。晴れの日に外に出て天を見上げると、そこに雲一点も無い「空」が広がっているとします。私たちは空を見上げて「今日の空は澄んでいるな」とか「青い綺麗な空だな」とかいっているのです。しかし、実際にそこには宇宙に続く空間が広がっているだけで、「空」という「物」は無いのです。「空」という実態は無い。空間だけですから。「じゃあ、お前の頭の上には空は無いのか?」と言われると、「いや、ちゃんとそこには空が広がっている」としか答えられないのです。「なるほど、それではその空を持って来い」といわれても持ってはいけません。
どうも「心」とはこういうものではないかなと思います。

達磨大師は、そのはっきりしないものを後生大事に「自分の心だ、自分の心だ」と執着して、実体の無い「心」というものに「いつまでお前は振り回されておるのだ」と教えてくれているのではないでしょうか?

皆さんも一度「自分の心は何処にあるのか?いったいどんなものなのか?」真剣に考えてみたら面白いかもしれませんね。

合掌
仏光


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 23:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月25日

とらわれない心

仏の教えは中道の教えです。中道とは、極端に走らずに、
ゆったりとした道を歩むことです。寝食を忘れて、
死にもの狂いになって修行をするのは、あまりにも極端すぎます。
かといって、怠けているのは駄目です。そういう極端を避けるのが中道です。

中道というものは、楽しみながら歩むことだといえるでしょう。
たとえば、山を登るのも、あせらずゆっくりと景色を楽しみながら、
山にはえている植物を観察し、 昆虫を眺めながら登るのが中道です。


ここに一本の材木が大きな川に流れ出ました。この材木が両岸に近づかず、沈むことなく、人にも取られず、渦に巻き込まれないなら、
ついには海に流れ入ります。この材木のたとえのように、物事にとらわれず、
「信は任すなり」 の境地で、人生の流れに身を任せて生きるならば、
苦しみや迷いのない清らかな中道の生活を送ることになり、
遂には彼岸の地 極楽浄土に到達することでしょう。

とらわれないとは、執着しないこと、握りしめないことです。

執着心を起こすと初めの内は楽しいようでも、たちまち迷いの生活となり
様々な苦しみをもたらします。しかし、此の世の中の人々は身分や
富の多少にかかわらず、金銭のことばかりにこだわり、
お金がなければ無いで苦しみ、あればあるで苦しみ、 心が安まるときが
ありません。お金のために自殺する人もいます。自殺しなくとも、
生きるとは死への旅なのです。…………

人生はレンタル、私達のすべては仏様から無料で預かっているだけです。
身も心も、生きている時間さえも。…………

とらわれない心は、仏の教えを信じることにより授けられます。
悲しみが有れば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがあります。
悲しみも喜びも越えたところが、とらわれのない世界です。

★「 信は任すなり」 とは、

   己を捨てて神仏にすべてをお任せするという意味である。

人生はとらわれない生き方の良い修行の場。
  喜びと悲しみがある。


 (仏教聖典より一部引用) 立花敏伸氏HPより


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 14:14| Comment(3) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月24日

今日一日

長い人生を、全て平穏無事に過ごそうと思うと大変難しい事に思えてきます。実際それは難しいでしょう。多くの人が落ち込んだり、絶望したり、うつになるのは、たぶん自分の生活や人生を考える期間が長すぎるのです。

世界の殆どの人は、その一生を平穏無事に過ごすことはできないのです。お釈迦様は人間は生まれた時から必ず根源的な「苦」が有ることに気づかれました。それを四苦といいます。それは生、老、病、死の四つの「苦」です。生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病気にかかる苦しみ、そして死ぬ苦しみです。

人間は誰でもこの「四苦」から逃れることはできません。したがって人間は生きていく上で苦しみから逃れることができないのです。普段私たちは「四苦八苦」という言葉を使いますが、この四苦は「四苦八苦」の四苦です。有る意味、みんな平等で、自分だけが苦しいわけではありません。

さて、長い期間で自分の人生を考えたりすると、最低限この根源的な「苦」に必ず行き当たります。「生まれてくる子が五体満足でなければどうしよう」とか「年を取ってよぼよぼになったらどうして生活していこう?」とか「死ぬ時に一人では嫌だ」とか「癌になったらどうしよう」とか普段普通に不安に思う事は、結構「四苦」に関係してくるのです。そして、自分で自分の将来の不安をわざわざ今日作り上げて、自分で落ち込んでいくのです。考えてみたら結構ご苦労さんな事だと思いませんか?将来の不安をわざわざ今日に持ってくるのですから。将来の不安は将来に置いておけばいいのです。

一生を長い期間でいつも考えていると「苦労の連続」になるのですが、明日以降はよく解らないけれど「今日一日だけは、平穏無事に過ごそう!」と思えば結構過ごせるものです。もし人から(まあ、天でも神様でも仏様でも誰でもいいのですが)、「明日以降は考えなくてもいいから、貴方は今日一日だけ平穏無事に過ごしてもらえませんか?」とお願いされたらどうでしょう。結構多くの人が「今日一日」だけはけんかもせずに、人を恨むことも無く、将来の不安も忘れて平穏無事に過ごせるのではないでしょうか。何てったって、「今日一日」だけでいいのですから。

私は毎朝、「今日一日だけは平穏無事に過ごそう」と自分に言い聞かせます。「今日一日だけなら何とかなるぜ!」ってね。それを毎朝やるのです。一日の終わりには「今日も何とか病気もせず、争うことも無く、死なずに一日を過ごすことができました。ありがとうございました。」って寝る前に感謝します。

そして死ぬまでこれを毎日やったら、結構平穏無事に一生過ごせそうな気がします。

合掌
仏光


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 20:50| Comment(7) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年01月23日

無欲の大欲

道端のアスファルトを突き破って新芽が出ているのをみたことがあるだろう。
アスファルトにぶつかった新芽は、一瞬にしておしつぶされてしまったはずである。
けれども、じわじわと無限小の速度で、無限大の時間をかけて、
新芽が押し出ようとすれば、それが無限大の力となってアスファルトにひびが入り
それが少しずつ割れていき、ほんの小さな隙間からでも、そこから新芽は伸びてくる。
つまり、新芽のように「無限小」の速度でも「無限大」の時間をかけて行動すれば、
そのエネルギーは「無限大」となり、不可能も可能になるのである。

◎ 欲望を捨てれば不可能が可能になる発想法 (正木和三先生著書)
人間には限りない欲望がある。欲に目がくらむといわれるように、
欲望を持っていては、それに とらわれて 創造性などは生まれてこない。
「無欲の大欲」 とは目先の欲望を捨て
自分のすべきことを黙々とこなしていけば、大きな成果が得られることを意味している。
欲望は心の外に捨て、目標 (理想) を心の底にしっかりと置き、一歩一歩確実に、
自分のなすべきことだけを果たしていくことが大切なのである。
目先の欲望に目も心もすべて奪われている間は、実行力も判断力も創造力も、
みな宙に浮いたままである。
お釈迦さまは悟りを開いた時「悟りを得たい」
という欲望があるうちは、心の目は盲目である。

----「修行」とは自分の行ったことが、自分以外の人に幸せを与えることなり------

他の人に幸せを与えるエネルギーが、自分の中にある生命体エネルギーを高め、
自分に還元され人間性が向上していくのである。

自分さえよければいいと他人を不幸にすることが、生命体に負のイメージとなり
蓄積されれば、その人の人間性は向上しないのである。人生は坂道を登るがごとし、
誰しも長い坂道や、何十段もある階段は登る前からうんざりするものであろう。
人生の階段も同じである。
頂上を見ながら登ると「まだか、まだか」と思い、それだけで疲れてしまう。
しかし一歩一歩足元をみつめ堅実に登っていけば、いつの間にか
頂上に達しているものである。頂上ばかり見ている人は
頭だけ高く、ふんぞり返っている。足元だけをみながら、一歩一歩着実に進んでいく人は
頭が低く、自然と高い所へと登っている。昔の人の教えに「道の上にある黒い石を踏むな」
というものがあるが、これも同じである。遠くにある目標は見なくても決まっている。
下を見て、地面の黒い石を踏まぬようにこまやかに観察し、
一歩一歩堅実に歩め、とのことである。

人間は誰しも人生、生き方における 「理想」 を持っているだろう。
その理想を 「目標」 としているならば、欲望 は捨てなさい、ただ絶対に到達しないような
大きな 願望 を持ちなさい。そして忘れなさい。
そうして自分の足元の一歩一歩を確実に歩んでいきなさい。そうすれば自然と目標へと
近づいていく。一歩ずつ確実に進むには「一生懸命」これが大切である。

※ 欲望・希望・願望・陰徳
欲望は目標がなく今の現実を避けており、希望は現実性があり、
願望は明確な目標があり夢を描がいているのです。
夢は希望につながるから悪いことではありませんので大いに持つことです。
しかし欲望は自己満足で自分さえよければと、思っているので個人的な感情だけで、
世間から見てもあまり評価されません。「陰徳」とは、かくれた徳である。
人にみせびらかさない善(よ)い行い のことをいう。自分はこういう善いことをしたなどと
得意がり、人にみせびらかしては、たとえそれが善いおこないであっても、
決して陰徳とはいえないのである。どんな小さなことでもよい、
人から喜んでもらえるようなことをしてただ、もう、うれしくてならないのが陰徳なのである。

 若いときに、血のにじむような努力をし、陰徳を積み
 多くの人々に幸福を与え、自分の利益や 欲望を捨て去って はじ めて
 この世に不可能はなくなるということなのである。
立花敏伸氏HPより

禅ではよく足元を照らせという話があります。暗い夜道に、ずっと先には何があるのだろうと一生懸命先を照らしても、その分足元が暗くなり石に躓いて転んでしまいます。

自分が不安なものだから、先先と見たくなるものですがぐっと我慢して今目の前にあること、今しなければいけないこと、今日会う人を大事にすることが先決でしょう。明日生きている保証は誰にも無いのです。今日の自分の行動が人に喜んでもらえるなら、こんなに幸せな日はありません。同じ一日、自分の欲に使うより、人に喜んでもらうために使いたいものです。

合掌
仏光


posted by 仏光さん at 15:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月22日

地獄と極楽

江戸中期頃、駿河の国に白隠和尚という素晴らしい禅の老師が居られました。五百年に一人と言われる臨済禅の逸材で、現在日本で行じられている臨済禅は全て白隠和尚の系譜であるといっても過言ではありません。

さて、ある日、白隠和尚のところに西国から一人の武芸者が尋ねて来ました。西国というくらいですから、今の九州辺りから何日も歩いて駿河の国、今の静岡県沼津市に居る白隠和尚に会いに来たのです。寺の小僧に取り次いでもらい、やっと和尚に会えることになりました。

武芸者は威儀を正してお礼を述べて、わざわざ会いに来た理由を伝えました。「私は武芸者で試合では常に命のやり取りをしなければいけません。和尚、本当に地獄と極楽は有るのでしょうか?この答えを高名な白隠和尚にお伺いしたいと思いはるばる西国よりやってまいりました。」

白隠和尚はチラッと武芸者を見て、「お前がそのような質問をするのは百年早いわ。帰れ帰れ!」と一喝して武芸者を山門の外へ放り出して門をぴシャッと閉めてしまいました。

武芸者は何日も何日も歩いてやっと白隠和尚のところへ来たのです。あきらめきれずに三日三晩、山門の外に立ってもう一度白隠和尚にお会いしたいと小僧に頼みました。小僧は見るに見かねて武芸者を白隠和尚のところへ連れて行きました。和尚の前で礼を尽くして深々とお辞儀をする武芸者を見て、「まだ居たのか!貴様のような者には用は無い。時間の無駄だ、帰れ!」とまた一喝しました。

さすがの武芸者も「ここまで礼を尽くしているのに・・・!この糞坊主!」と、腹が立って思わず刀の柄に手をかけました。そこへすかさず白隠和尚は振り向いて「それが地獄だー!」と、怒りに任せて和尚を切り殺そうと刀を抜いた武芸者に向かって言い放ちました。

そこはさすが武芸者です。ハッとその意味がすぐに分かり「ハハー!恐れ入りました!よく解りました!ありがとうございました。」と畳に頭をこすり付けました。それを見て白隠和尚は微笑みながら穏やかな声で「それが極楽だ。」と武芸者に教えてあげました。

地獄、極楽は死んだ後の世界の話ではありません。地獄、極楽は私たちの心の中に有るのです。

合掌
仏光



ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー


posted by 仏光さん at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地獄と極楽

お釈迦さまと蓮の花

泥水が濃ければ濃いほど、はすの花は大輪の花を咲かせます。
泥水とは人生におきかえれば、つらいこと、悲しいこと、大変なことです。
ほとんど泥水ではなく、真水に近いようなきれいな水である場合、
蓮の花は本当に小さな花しか咲かせません。
大輪の花を咲かせるためには、ものすごく汚い泥水が必要です。
蓮の花は泥水の中からしか立ち上がってこないのです。


蓮の花とは、まさに人生の中で花を咲かせること、
そして、その花の中に実があるのが 「悟り」 です。
つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないのだ、
ということをお釈迦さまは教えたかったのだと思います。

人は 「悟る」 ことが出来れば、迷い苦しみはなくなり      
まわりのこと、人、もの、現象が、
みんな 「幸せに思える」 ようになります。

★ お釈迦さま は うつくしい花を咲かせるためには泥は必要であるということを
伝えたかったようです。私たちはいろいろな悲しみ・つらさ・大変なことを経験しない
限り、悟ることはできないという教えです。そんな苦難なときが来たら、

「ああ、この結果として私は大きな悟りに、美しい世界に導かれていくのだな」

と思うことが大切です。そう思えれば、自分自身にとってものすごく嬉しく楽しく、
幸せで素晴らしいこと、そして、有難いことだと気が付いてきます。

それをお釈迦様は後世の人に伝えたかったようです。
その象徴として、蓮の花が台座に選ばれました。
※ 「悟り」 とは受け入れること。受け入れるためには3秒あればよい。

1秒目、過去のすべてを受け入れること。
2秒目、現在のすべてを受け入れること。
3秒目、未来のすべてを受け入れること。

「こうありたい」 あるいは 「こうあってはならない」 と思うことは、
そのどちらも執着ということにほかなりません。執着していることが、
自分にとってのストレスになり、ストレスが体を壊していくようです。

※ 悟りを開くとは「仏」すなわち「真理に目覚めた人」に成ることをいいます。
心の迷いが解けて、真理を会得することの意。
悟りの世界=迷いのない心の安住の地。

悲しい・つらいことを否定せず、悟るために必要なもの として受け止めると、
この経験が、心を豊か にして、いつでも幸せを感じ取る事が出来ます。
人の悲しみや苦労も解る 豊かな心 になります。 

「心が豊かな人は、いつでも幸せです。」  立花敏伸氏HPより



私も、本当に死ぬほどつらい思いをして、苦しかったからこそ禅との縁ができ、そこで仏道に触れて今幸せに毎日を過ごさせてもらっていると思います。辛い思いをしなかったら絶対坐禅なんかしなかったと思うし、こんな考え、ものの見方、要するに仏道の智慧などに触れることもなかったでしょう。そして今でも自分の感情に引きずられるままに、毎日右往左往していたと思います。

面白いことに、今から思うと「あの頃の自分は、なぜあんな程度のことで死ぬほど辛かったんだろう?」と不思議に思います。その場その場では「これほど辛いことがあろうか?」「これほど悲しいことがあろうか?」と思っていてもその中にきっと自分がより成長するための種が巧妙に仕組まれているのです。そしてあらゆる困難に対する答えは、既に自分の中にちゃんと用意してあるのだと思います。それに気づくためには、やはり先人の正しい教えを見聞きし、そして少しづつでも良いから実践していくことが近道ですね。

「この世の地獄」と思って這いまわっている時でも、心の中に仕組まれた善き種が成長したら、きっと大きい綺麗な蓮の花が皆さんの心の中に咲くのでしょうね。

合掌
仏光


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー




posted by 仏光さん at 12:08| Comment(1) | TrackBack(0) | お釈迦様

2009年01月21日

一日為さざれば、一日食らわず!

昔、中国に百丈和尚という、実在の禅の高僧が居ました。百丈和尚はもちろん「師」であり、かなりの高齢でしたが毎日寺の境内の掃除を日課としていました。禅ではこのような作業を作務といいます。

弟子たちは暑い日も雪の降る日も境内の掃除をする和尚をとても気遣っていました。弟子たちは話し合って老師に掃除をするのを止めて貰う事にしました。
「和尚はもうご高齢なのでお体が心配です。寺の掃除は私たちがしますから、どうぞ休んでいてください。」とお願いしました。
しかし、和尚は一向に掃除を止めようとはしません。そこで、弟子たちは掃除ができないように和尚の掃除道具を隠してしまいました。

道具が無くなった和尚は、仕方なく掃除をするのを止めて部屋に居ました。ところがその日から和尚は食事を取らなくなりました。「どうぞご飯を食べてください。」と泣きながら頼む弟子たちに向かって百丈和尚は

「一日為さざれば、一日食らわず!」

一日働かなかったら、一日食うな!と弟子たちを一喝しました。

私たちは何とか楽をして暮らそうと思いがちです。「できれば働かずに贅沢な暮らしができたら良いなあ」と願っている人も居るでしょう。中には「自分は頭脳ワークだ。辛い、汚い、身体を使う仕事は他の人間がやればいい。俺はそのために出世しているのだ。」と本気で思っている人も結構居られます。

しかし、そういう生き方はやはり間違っているのだと思います。こういう人間が多くの人から好かれるでしょうか?尊敬されるでしょうか?貴方はこういう人間についていきたいと思いますか?
私は思いません。

私たちは、自分の能力、身体を使ってこの世のために何かを為すために生きているのだと思います。食べるために働いているのではなく、「働くために食べているのだ」と思います。

私は百丈和尚のように、死ぬ一日前まで何かを為すためにこの世で働いていたいと願っています。

自分がどの様な立場に居ようとも、一生懸命みんなと汗を流して働いている人が好きです。私はそういう人と一緒に働きたいと思います。

さて、私たちは今日、一日を振り返って、自分に恥じることなく夕飯の箸を取ることができるでしょうか?

合掌
仏光


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー


posted by 仏光さん at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 真剣に一日生きる

弘法大師 空海の教え

人は限りない欲望(よくぼう)、怒(いか)り、むさぼり(いくらでもほしがる)
などのさまざまな「悪い心」の働きが起こり、
それによって、人は迷い苦しみます。

弘法大師はそうした人の心を、花のつぼみにたとえられました。
そんな未完成な私たちの心に対して「仏の心」は欠けるところのない満月であると、弘法大師は言われました。

月は暗闇(くらやみ) の新月から 日々満ちてゆき、満月となります。
つぼみも春になるときれいな花を咲かせます。
つまり人の心は日々の生活の中で汚れていますが、本来は、
清く正しい仏心を、誰もが持ち合わせているし、その心を開く可能性が備(そな)わっているというのです。弘法大師の教えは、
自分自身が本来持っている「仏心」「さとりの世界」を
呼びおこすことなのです。そのためには自分自身の心を深くみつめ、仏のような心で仏のように行い、仏のように語ることが
大切だといいます。また、
より多くの人と、そのような気持ちを高めあって努力していくことを弘法大師は目指しておられるのです。

失う苦しみから逃れる為に、弘法大師空海は次のように
「施 (ほどこ)しの行」を説かれています。

   むさぼり、惜(お)しむ心に勝てず、
   人のために財(ざい)を使うことがなければ
   いつも餓(う)える心に苦しむ。


少しの食物も分かちて、甘(あま)さを割(さ)き与えるものはこの苦しみから脱(のが) れることができる。
        
            (弘法大師空海)  立花敏伸氏HPより

                      
むさぼり惜しむと、結局は自分がさみしく苦しむだけですね。私は社会人になったころ、「はたらく」という言葉は「端(はた)を楽にさせる」と言うことだよと教わったことがあります。自分のためだけではなく、周りにいる家族や同僚を楽にさせるために自分が「働く」のです。自分が一生懸命働くことは周りに対する労働力の布施です。禅の修行に入った今は心から「なるほどなあ」と思えます。一生懸命「はたらき」ましょうや。

仏光



ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー
posted by 仏光さん at 14:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年01月20日

人生の出来事のすべてに、教えがあります。

● 特に苦しいこと、悲しいこと、辛いことからたくさんの学びがあります。
しかし、人はその教えに気づかず「苦しい」、「悲しい」、「辛い」、という感情が、
心の中を占領してしまって悩んでしまいます。悩むと心は疲れ、病んでいきます。

悩みの打開策は、この出来事は 「私に何を教えているのか考えてみる」 ことが大切です。
そして、その教えに気づいたら 感謝 することです。
このように何事も感謝の心で受けいれるという習慣が身につけば
心はいきいきと健康で豊かな心に成長し、
どんなことにも「幸せを感じて」生きていけます。

幸せ とはつかむものでも、来るものでもありません、ひとえに 感じるもの です。

心が貧しくては幸せを感じることはできません。
われわれはご飯を食べる方法は知っていてもご飯をいただく感謝の心を忘れています。
貧しさは心の中にあるのです。感謝の心を常に忘れずどんなことにも
幸せを感じる 「豊かな心」 に成長させなくてはなりません。

こころが豊かに成長するためにはトレーニングが必要です。そのトレーニングは
自らの魂が生まれる前に書いたシナリオ通りに、この世で体験します。
我々はこの試練を、辛くとも 「幸せを感じる心」 を作るために
与えてくれた 「ありがたい心のトレーニング」 と受けいれることです。
そして、この出来事は私に何を教えてくれているのか、その教えに気づくことです。
そして、教えに気がついたら 感謝する ことです。

● 感謝すると、いいことがいっぱいやってきます。
それは、感謝の波動が、協力のエネルギーを呼ぶ からです。
どんな出来事も教えに気づき 「感謝の心」 で受けとめるという習慣が身につけば、
幸せをいっぱい感じられて、この世は素晴らしいということを実感することでしょう。

★ 今 私は苦労のお陰で、苦労した何倍もの 幸せを感じて生きています。
それは、急な山道を重たい荷物を持って登ってきて、それらの荷物をおろして
平坦な頂上近くのなだらかな勾配の道にたどりついて、下を見下ろして
よく登ってきたな、いい景色だな。肩の荷がおりて軽い、楽だ。とてもうれしい。
そんな感じです。「苦は楽の種」 を実感しています。
苦しい、つらい、悲しいことは幸せを感じる心を作るための
心のトレーニング (良薬) です。何事も感謝の心で受けいれるという訓練が
「心を健康」 にし、苦難が人の痛みの分かる 「やさしい心」 をつくります。
人は心が健康でなければ、幸せを感じることはできません。
そのために心のトレーニング(良薬) は必要です。
やさしい心は周りの人を幸せにします。周りの人の幸せを己の魂は一番喜びます。
魂が喜ぶと、当然自分の「心」は幸せを感じます。

● 釈迦は、この世の悩み・苦しみの根元は「思いどおりにならいこと」と見抜いた。
だから、「思いどおりにしようとしないで、受け容(い)れよ」と言った。
その最高の形は「ありがとう」と感謝することだったのです。
この思いどおりにしようとする執着心はとても心を苦しめます。
そして、物に執着すると失う苦しみがおそってきます。失う苦しみから逃れるために、
弘法大師は「布施の行」をしなさいと説かれています。布施の行とは我欲を捨て、
人のために生きることです。
布施の行も含めた「天を味方にする生き方」が幸せを感じる心をつくります。

『笑って暮らすも一生、泣いて暮らすも一生』

ドイツの格言
  
  幸せのヒント 「幸せを選択する」

自分に無いものを嘆くより、有るものを喜ぼう
暗いことを考えるより、明るいことを考えよう
イヤな人のことを考えるより、好きな人のことを考えよう
自分の欠点ばかり考えずに、長所のことも考えよう
悩んでばかりいないで、幸せになれることをしよう。

「不幸」を数えて暮らすより、「幸せ」を数えて暮らそう
立花敏伸氏HPより


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 22:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月19日

人の幸せを喜ぶ

私は人が幸せそうにしているのを見るのが大好きです。こっちまで幸せな気分になるのですが、人が幸せそうにしていると妬んだり嫉妬したりする気分になる人が結構居られます。だから日本では「出る杭は打たれる」という言葉もあります。

勿論なかには「こんな大きな家に住んでいるんだぞ」とか「こんな立派な肩書きが有るんだぞ」とさりげなく見せ付ける人も居ますが、それでも私は「それは良かったですね。よく頑張りましたね」と喜んであげることにしています。なぜなら、その人が大きな家に住んでいたり、立派な肩書きが有ることと、私の人生には全く何の関係もないからです。見て欲しいから誇示されるのですから「ハイハイなるほどそうですね」と心から見てあげたらいいのです。

ところが世の中には、自分の利害とは何の関係も無いのに「人が得をするのを見ているのは嫌だ」と思う人が案外多いです。「人が得をしているのなら自分も得をしたい。」「自分が損をしたら人にも損して欲しい。」と思うのですね。

これは一生自分が幸せになれないから、今すぐやめられたほうが良いです。地球上には60億人以上の人が居ますから、人と比べていても全くきりが無いのです。

今の世の中は、生まれたときから親から、学校から、社会から人と競い合うことを学びます。人と競い合い、打ち勝ち、弱ければ努力をし、それを「向上心だ」とか「自己啓発だ」と呼びながら人から抜きん出る事を幼い時から強要されるのです。受験戦争を勝ち抜き、多数の応募から就職に競り勝って、職場では同期と競い合い何としても「勝ち組」と呼ばれているグループに所属したいと思うのです。これは赤ん坊の時から教育されるわけですから潜在意識に深く刷り込まれるので本人は無意識の中で、勝てないと悩んだり、ひねくれたり、落ち込んだりするのです。勝たなければならないプレッシャーからうつになる人も居ます。そして勝った人はその「勝ち」を皆から賞賛されたいと思ってさりげなく見せ付けたり、立派な家に招待したりします。世の中の多くの人がこのようなことに一生を費やすのです。

仏教では「与楽抜苦」という教えがあります。「人に楽を与えて、人の苦しみを取ってあげなさい」と教えているのです。自分の利得など一言も言ってはいません。「そんな悠長なことをしていたら人に負けてしまう!」と言った人も居ましたが、私は自分を誰とも比べないのでもともと勝ち負けというものが存在しません。こんな気楽なこともありません。

自分ができる範囲で人の「苦」を取って上げて、人が喜んでくれることをするのです。こういう生き方をしていると、本当に毎日幸せな気持ちで過ごすことができます。そして結果として人から与えてもらうことも多くなります。だから食いっぱぐれることもありません。リターンを期待するのではなく、真心で一生懸命自分が今しなければならないことをしていると、そういうことが不思議に起こります。

ヒマラヤのブータンという国は仏教国で他の文化を極力入れないようにしています。日本より物質的には全く恵まれてはいないのですが、ある国連機関が「幸せ度」の調査をしたところ国民の95%が「自分は幸せである」と感じているとの事です。物質的に何十倍、何百倍も恵まれている日本で同じような調査をしたらどんな結果になるでしょう?

幸せな国を作るのには、子供の時から「向上心をもって努力し、人に打ち勝ち、人生の勝者となるのだ!」と家や学校で教えるよりは「自分のできる範囲で精一杯人に楽を与えて、人の苦しみを取ってあげなさい」と教える方が断然近道のようです。

仏光


ランキング参加中。クリックをお願いします↓
仏光さんのバナー

posted by 仏光さん at 22:37| Comment(2) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年01月18日

思い通りにならない人生に疲れたら

●相手を丸ごと認める
目の前の人が、自分の考え、生き方、価値観とは違うということを認めること。
それを学びに生まれてきている。例えば妻と夫がお互いに全然違うということを
認識すると、喧嘩をしなくなる。わかり合おうとか、説得して理解をして
もらおうとか、思わないほうがいいようです。相手を丸ごと認める と、
お互いにラクになれるのです。
悩み、苦しみ、苦悩、煩悩とは、何かを自分の思い通りにしようとした瞬間に生まれるのです。
そして、その思いが強ければ強いほど、その強さと同じ分だけ、痛みが
自分の胸に突き刺さるようになっています。「思い」がなければ、どこにも、
突き刺さりません。「思い」がある人ほど、心が「重い」。

●目の前のこと・人・ものを大切に
結婚運がない、就職が決まらない、末期がんで余命3ヶ月・・・・
この質問に対して、私はすべて同じことを言いました。
「今、自分が置かれている状況がどうであるかということに、感想を持つ必要はないし、
評価、評論はいらない。今、自分がやるべきことというのは、自分の目の前にいる人を
大事にすることです。やるべきことがあったら、それをやることであって、結婚も就職も死も、
自分の目の前にないのだから、考えなくてよいのではありませんか」

3ヶ月後に死ぬということに、関心を持たなくていいのです。そんなことは、
あなたには関係がない。今すべきことは、目の前のこと、人、ものを
大事にするだけ。ガンであと3ヶ月の命、と宣告されたら、それをどうやって
半年、一年に延ばそうかと思うのではなくて、その3ヶ月の間に、
「どれだけ人に喜ばれたか」ということを、足跡として残していくほうがいいと
思います。「喜ばれること」は、自分が「喜びを感ずる」こととイコールです。
ガンは余命幾月というのがわかりますから、「神様、死ぬ時期を教えてくださってありがとう」
と感謝することもできます。ある医療機関の報告ですが、ガンで余命3ヶ月と宣告されてから、
奇跡的にがん細胞が消滅して治った人たちの共通項と、治らずにそのまま死んでしまった
人たちの共通項というものがあるそうです。

前者は、「がんをどう治すか」ではなくて「残された3ヶ月という時間をどう生きるか」に
考えを切り替えた人たちです。余命3ヶ月と言われて、その3ヶ月を、自分のやりたいこと、
例えば絵とか、俳句をつくって遺そうとか、その3ヶ月間の日記を書いて、同じような境遇の
人を勇気づけるようなものを遺していこうとか、「自分の生きている時間をどうするか」に
考え方を切り替えた人が、ガン細胞を体の中から消滅させるということがあったらしいのです。
そして、その生き残った元がん患者さんたちは、
「もう何も人生で心配することはなくなった」と全員がおっしゃいました。
余命3ヶ月といわれた時の状態で毎日を過ごしているので、日々の一瞬一瞬を楽しんで
生きているので、残された余命がどれくらいかということは、
もう関係がなくなり、とても幸せを感じて生きているとのことでした。

立花敏伸氏HPより
posted by 仏光さん at 19:48| Comment(10) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年01月17日

お釈迦様の教え

なぜ辛(つら) く、苦(くる) しいのでしょう?
満たされない…
欲しいものがまだまだ得られない…
そんな思いをしたことはないですか?

生きている間、ずっと 「満たされない渇(かわ)き」
に苦しむのが人間なのだ、とお釈迦様は説かれました。

この満たされない渇きは、自分の好きなものに執着(しゅうちゃく)し、
嫌いなものに憎しみを抱く、そんな人の思いによって強まります。
また、この世界の命あるものは無常(むじょう) です。
(無常 : この世のすべてのものは常に変化して定まりのないこと)

美しいものも、時とともに姿を変えます。自分の身体さえ若さを
失って、老います。
それに執着しようとすれば、苦しみが生まれます。
人間は、美しいものに心を奪われて、迷い、失うことを恐れ、
そして思うようにならないものに悩み、不安になり、苦しみます。

また生きているうちに何かを追いかけなければという
焦燥感(しょうそうかん)や、(焦燥感 : いらいらする)
老いへの迷いに取りつかれると、さらなる苦しみが生まれます。


「移り変わっていくものに心を奪(うば) われる者は、惜(お)しみ、
貧欲(どんよく) になり、憤(いか)り、愚(おろ)かになる。
時には、正しいものの見方もできなくなる。
……全(すべ)てのものは心によって起(お)こり、心に支配される。
しかし私たちは心に支配されず、心を支配する主(あるじ)と
ならなければいけない。
そして、あるがままに全てを観(み)る智慧(ちえ)をもつべきである。」

※【般若(はんにゃ)】とは智慧(ちえ)のことであり、智慧とは悟りを得る、真理を把握するための正しい判断力のこと。


立花敏伸氏HPより
posted by 仏光さん at 13:55| Comment(4) | TrackBack(0) | 自我

2009年01月16日

お母さん僕が生まれてごめんなさい

ごめんなさいね お母さん
ごめんなさいね お母さん
僕が生まれて ごめんなさい
僕を背負う母さんの 細いうなじに僕は言う
僕さえ生まれなかったら
母さんの白髪もなかったろうね
大きくなったこの僕を背負って歩く悲しさも
「かたわな子だね」とふりかえる
冷たい視線に泣くことも 僕さえ生まれなかったら

私の息子よ 許してね 私の息子よ 許してね
この母さんを 許しておくれ
お前が脳性マヒと 知ったとき
「ああごめんなさい」と 泣きました
いっぱい いっぱい 泣きました
いつまでたっても歩けない お前を背負って歩くとき
肩にくい込む重さより「歩きたかろうね」と 母ごころ
「重くはない?」と聞いている あなたの心が
せつなくて 私の息子よありがとう
ありがとう 私の息子よ
あなたの姿を見守って お母さんは生きていく
悲しいまでの頑張りと 人をいたわる微笑みの
その笑顔で生きている 脳性マヒのわが息子
そこに あなたがいるかぎり

ありがとう お母さん ありがとう お母さん
お母さんがいるかぎり 僕は生きていくのです
脳性マヒを生きていく 優しさこそが大切で 悲しさこそが美しい
そんな人の生き方を 教えてくれたお母さん
お母さん あなたがそこに いるかぎり  
(土屋康文 15才 )
posted by 仏光さん at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ありがとう、ありがとう

2009年01月15日

安楽は苦しみ 苦しみは安楽

釈迦は説かれる
人々が 「安楽」 であると称するものを、諸々の聖者は 「苦しみ」 であるという。
人々が 「苦しみ」 であると称するものを、聖者は 「安楽」 であると知る、
解し難き真理を見よ、無智なる人々はここに迷っている。

それを解るだけ、あげてみよう。
繁栄とは、もらうことではなく与えること。たくさん良きものを与えた人は、
たくさん与え返されて栄える。たくさんのお金はありすぎると、人は減ることを恐れ始め、
その恐れによって苦が生じ始める。たくさんの食事、おいしい食事は、
食べすぎて胃を壊し、ガンのもととなり病を得る。どんなことも手を抜き、楽をすると、
手を抜き、楽をした分、あとで二倍の手間を要して苦しむ。
安楽におぼれると肥り始め、さまざまな病を呼びよせる。
旨いものは大体酸性食品であり、体の疲れと、目覚めの悪さを引きつける。

車や、パソコンや、計算機は安楽な分、歩くことが出来なくなり、
漢字が書けなくなり、足腰が弱くなって糖尿病を招く。
安楽な分、やがて苦しむことになる。
このように安楽と思われたものは、やがて苦のもととなる。
白米は食べるにおいしいが、玄米は、今では健康のもとである。

最初は苦で始まる登山も、頂きに立つと爽快感にかわる。

貧しき新婚家庭も苦ではなく、貧しさも 楽しき苦労 にかわる。
苦い薬や苦い青野菜汁は元気のもととなる。一人歩くは苦しみではなく、
自由でゆったりとして気がとても楽である。 お金は苦 であり、
稼ぎ続けるのは大変である。トラブルは苦であるが、学ぶことも多い。
少ない食事は苦ではなく、腹八分で身も軽く丁度良い。

しかし、ジャリ道を努力して抜ければ、
釈迦のいわれる 安楽な舗装道路に入ることが出来る。

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より

posted by 仏光さん at 23:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

風流な人

風流な人
(迷ったときは動かない)

(小林正観著 幸せの宇宙構造より引用)

よくいろんな人に質問をされますが、
「こういう場合にはどうしたらいいだろうか。
今こういう状態なのだけれど、やった方がいいだろうか。
やらないほうがいいだろうか」というようなことです。そのようなとき、
私はいつも答えます「風が吹いてますか、川が流れていますか」と。
風が吹いているとか川が流れているというのは、自分の好みとは
関係なく、「それはあなたがやった方がいいですよ」と言うように
風が吹いているか、あるいは、川が流れて自分をそのように押し流して
くれているか、という意味です。もし、自分の意志とは関係なく、
そういう方向性が流れてないという場合には、新しいことを
( 自分がやりたいうと思ったことでも ) なるべくやらない方がよいよう
に思います。逆に、なんとなくそちらの方に流されている、あるいは、
やる羽目になっているようだ、と言う場合にはやった方がよいと
思います。そのひとつひとつのことについて自分の好きだ、嫌いだ
という自我をなくすこと、それが、神や仏のメッセージを聞くことの
ような気がします。それに従ってやっていくことが、人生を楽にし、
楽しくするようです。そういう人を私は「風流な人」と呼ぶことに
しました。「私」の好き嫌いでものを選ばず、社会的に、宇宙的に、
ある方向を指し示されていると感じた場合に、是非そちらに
足を踏み入れてみてください。大変楽しい人生が展開するはずです。

posted by 仏光さん at 22:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

2009年01月14日

明日死ぬと思うと・・・・

普段私たちは心の何処かで「自分はまだ死なない」と思っているものです。有名な一休さん(一休さんも実在の禅僧でした)でも
「今までは 他人の事よと思ったけれど
俺が死ぬとは こいつはたまらん」
という句を死ぬ時に残しています。それほど「他人は死んでも自分はまだ死なない」という思いは強いものです。

しかし、現実は誰も自分がいつ死ぬのかはわかりません。老衰や病気で死ななくても、明日事故や災害で死ぬかもしれません。よく考えてみると、私たちは非常に危うい一日一日を過ごしているのです。今までなんとか死なずに済んできただけなのです。残念ながら人間の死亡率は今のところ100%です。

もしあなたが、明日死ぬとなれば、今日不安に思っていること、悩んでいること、怒っていることで本当に頭を悩ますでしょうかね?明日死ぬとなれば、今不安に思っていること、悩んでいること、怒っている事を、死ぬ一日前の今日同じように思ったり、考えたりするでしょうか?たぶん私はしないと思います。もし、ある人が「老後の不安」で毎日悩んでいたとします。しかし、明日死ぬと決まれば老後は無いわけですから、不安に思ったり悩んだりする心配は一気に無くなります。

もしかすると私たちが日々不安になったり、怒ったり、悩んだりしていることは本来はそこまで必要な事ではなくて、自分でわざわざ心を悩まして一日を過ごしているのかもしれません。

私は朝、目が覚めると自分に「私は明日死ぬ」と実感が湧くまで言い聞かせます。そうすると今日、無事目が覚めて一日が与えられていることがとてもありがたく思えてきます。そして、「今日自分が出会う家族、同僚、仲間、赤の他人すべての人を大事にしよう。」「今日、目の前にある自分がしなければいけない事に全力を尽くそう。」「ごはんもおいしく大事に食べよう。風呂もゆっくり楽しもう。一分一秒がとても大事。怒ったり、泣いたり、悩んだりしていては時間がもったいない。明日は無いのだから!」と言い聞かせます。そうすると無駄な事を考えずに、案外楽しく無事に一日が過ごせるものです。本当に死ぬ日までこれを続ければ、なんと充実した人生になるでしょう!        仏光
posted by 仏光さん at 16:14| Comment(2) | TrackBack(0) | 明日死ぬと思うと・・・・

2009年01月13日

空の心

生きていくうえで、信念とか優しさとか厳しさとかを前面に押し立てて
嵐やら波風にまともに立ち向かっていける人はそう多くは
いないでしょう。日々のちょっとした出来事や、考えてもしょうがない
先の漠然とした不安やら、人の言葉尻に一喜一憂しながら腹を立てたり
笑ったり泣いたり妬みやっかみ、罵りながらおまけにズボッとはまるのがわかっていて、つい、どろんこの水たまりに脚を入れてみたくなるのが人生なのね。

比べてもしょうがないのに、持つ者と持たざる者、美人だとか
不美人だとか足が長いかいとかあらゆるところに比べるものがあってね。
人の幸、不幸が始まるのね。

生まれた以上、必ず死ぬという大前提があるわけで、いつ死ぬか
わからない。順番通りとはいかぬということは誰でもが知っていることでありますが、我が身に置き換えて素直に受け止める人はまずいない。
金、金、金 出世、名誉、楽したい、旨い物食べたい、もてたい・・・
亡者とまではいかなくても、欲が多少なりとも有るのね。
どうしようもない人間が右往左往して今日もくれていく。
神様やら仏様の知恵をお借りしながら生かされている自分に
気付かさせていただく日々でありますように・・・・

ふふふ   ほほえみ地蔵さんが  今日も笑顔でね…・・

                 (秘密のお地蔵さんより引用)


●おぼれている母親と妻、どっちを助ける?

母親と妻が川でおぼれかかっている。さてどちらを先に助けるべきか?
やはり、親孝行が一番大事だから母親を助けるか?それとも縁あって
結ばれたのだから、妻を助けるか?
しかし、こんなことを考えていると二人ともおぼれて死んでしまう。
さあ、あなたならどうする!?
答えは、近くにいる方から助ける、である。母親だから、妻だから、
と考えるのは「母親」「妻」いうレッテルをはることである。
こだわっているのだ。このこだわりを捨てる事がすなわち
「空」なのである。…・・

                (ひろさちや仏教百科より引用)



とらわれない心・かたよらない心・こだわらない心

広く広くもっと広く これが般若心経、

 「空の心」 なり


posted by 仏光さん at 15:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 空の心

2009年01月12日

お金が無くて辛かったら

なぜお金が入ってくる人と、入ってこない人に分かれるのでしょうか ?
お金が入ってくる人の共通項は、「お金が入ってこなくてもいい」と思っていること
です。こだわっていない人には入ってくるのです。「どうしてもお金がほしい」
と思っている人には入ってきません。なぜかと言うと、執着している人は超能力が使えないからです。
超能力者になるためには「執着を捨てること」が「絶対に」必要です。
執着とは、要するに接着剤を自分の体にペタぺタとくっつく接着剤をつけていると思ってください。
瞬間に固まるのではなく、永久に固まらない接着剤です。体中が接着剤だらけだから、
自分の超能力である85パーセントの潜在能力が出なくなるので使えないのです。
「そうならなければイヤだ」と思った瞬間に全然そうならなくなります。
「そうならなくてもいいけど、なったらうれしい。そうならなくてもいいけど、なったら楽しい。
そうならなくてもいいけど、なったら幸せだ。 そうならなくてもいいけど、なったらありがたい」
というように、喜びだけを上乗せする のです。喜びの想念だけを宇宙に向かって投げかけると、
面白い現象が起きます。
執着があると潜在能力が使えないので、自分の実力でしか戦えません。
面白がることが、ものすごく重要です。このように喜びだけを投げかけると、
神様や「お陰様」は、喜ばれたくて、喜ばれたくて仕方がない方たちなので、
その喜びを与えたいと思うようです。ところが「そうでなければイヤだ。
そうでなければ不愉快だ、悲しいし、悔しい」と思う人には、そのような現象が起きません。

● トイレ掃除をして蓋をしめる。

トイレ掃除をし、蓋を閉めていると、臨時収入が入るらしい。
つまりトイレ掃除を一生懸命にやって、トイレの蓋は閉める。
そして、不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句を言っていない。非難、攻撃、中傷をしていない。
いつもニコニコしていて、自分が喜ばれる存在でありたいと思いながら生きている人たちです。
その基本が あって、「お金が必要なときには来るだろうし、ないときはないということだろう」と思い、
宇宙を恨んだり、呪ったりしないと、どうもそのような現象が起こるらしい。
これは、ものすごく私たちを励まします。私たちは、三次元的な働きかけをしたり、
働いて汗を流さなければお金は絶対に手に入らないと思ってきました。
でも実は、このような「お金が湧いてきた」と思われるような例は、あちこちにあるのかもしれません。
しかも、私の知人に起きた実例は不思議なことに、これだけあればいいという、
ぴったりの金額が湧いてくるという実例ばかりでした。

● 新しい財布を買ったときに初めて入れるお金をたくさん入れる。

財布は最初に入ったお金を記憶します、例えば30万円のお金を最初に入れるとその財布自身が
「自分は30万円の守り神である」という認識をします。そこで使ってお金が減ると、
新たに補充のためのお金が入ってくるらしい。しかし、貯めよう、貯めようと思っていると駄目らしいです。

● 貧乏神と福の神は同じ神様

みなさんは、貧乏神と聞くと、貧相で弱々しい神様を連想すると思いますが、
先日、ある方の相談にのっているとき、貧乏神というものの正体がわかりました。
その人は「自分は、給料が少ないのにもかかわらず、気に入ったものがあったら、つい買ってしまう。
その結果、借金を抱えて困っている」ということでした。
私は、その人のお顔を見て、どうも貧乏神がくっついてように見えたのです。
そのとき初めて貧乏神の本当の意味を知ったように思いました。貧乏神って、貧乏しているから、
お金を使わない神様ではないのです。
貧乏神ってお金を使いたい神様らしい。お金を使うのが、すごく好きな神様が貧乏神 なのです。
どういうことなのでしょう。貧乏神と福の神は、実は同じ神様らしいのです。

自分のためだけにお金を使う人、その人についている神様を結果的に貧乏神と呼ぶ 一方、
自分のためにはお金を使わないで、人のためにお金を使う人、そこについている神様を
結果的に福の神と呼ぶようです。本来は同じ神様です。
ところが、ついている神様は、自分が貧乏神なのか、福の神なのかはわからない。
三次元にいる私たちによってどちらかに決まるみたいです。
ということは、その人がお金をどう使うかによって決まるのなら、
今、貧乏神がついている人でも、一秒後にその神様を福の神にできるということでしょう。
逆に、今、福の神としてついているのを一挙に貧乏神にすることもできる。
お金の使い方をパッと変えるだけで、福の神にも貧乏神にも瞬時にして変化するようです。
「じゃあ、半分は自分のために使い、半分は人のために使っている人は?」どっちの神様でもない。
どっちの名前でも呼ばれない(金遣いの荒い神様)がついているフツーの人。
ポイントは「だけ」という言葉です。これを覚えておいてください。
自分のためにだけにお金を使う人には 貧乏神 が、
人のためだけにお金を使う人には 福の神 がついている。
どちらも同じ神様で、結果として、貧乏神、福の神になっているということのようです。
だから、私が見た貧乏神さんは、ビジュアル的に言いますと、ミンクのコートを羽織って、
10本指にダイヤをつけて、とってもきらびやか。
貧しく貧相な貧乏神というのは、どうも違うらしい。
貧乏神は、ただひたすら自分のためにだけお金を使うので、その見本のように、
ものすごくゴージャスな格好をしている。一方、福の神は、極めてシンプルな身なりをしている。
自分のためにお金を使うという思想がもともとないので、
入ってきたお金は周りの人のために使ってしまうから、その結果として、
福の神自身はすごくシンプルな格好なんです。ここのところに気がつくと、神様が
どういう人に対してお金をくださるのかがわかってくるでしょう。
いくら願ってもいい。「2000万円ほしい、3000万円ほしい」といってもいい。
それを、自分のためだけに使うというより「お金はみんなのもの」と思って、
「みんなに喜ばれるような使い方をしたい」と願っていると、どうも神様は聞いてくださるようなのです。
例えば、目の前に絵描きを志している人がいて、その作品が全然売れないというという場合があるとします。

そのとき、手元にまとまったお金があったら、
「この人たちの作品を買ってあげたい、支援してあげたい」と思って、買わせていただく。
すると、宇宙はそういう気持ちに応えてくれるようです。このようなお金の使い方をすると、
その人を好ましく思う人たちが周りにどんどん増えていきます。集まった人々に対しても、
またその人は喜ばれるかたちでお金を使うものですから、周りの人からすると、
その人に裕福になってほしい、お金には絶対困らないようになってほしい、と思うでしょう、
気持ちの部分で、みんながその人を応援し、宇宙にも支援されるわけですから、
またお金がまわってきて、結果的にみんなが潤う、ということになるのです。

立花敏伸氏HPより
posted by 仏光さん at 09:49| Comment(0) | TrackBack(0) | お金が無くて辛かったら

2009年01月11日

怒りの感情は病を引き起こす

釈迦 いわく
怒りをやめて、安らかに臥(ふ)す。
怒りをなくして、悩まない。
怒りを滅ぼすことを、聖者たちは賞讃する。
ヴァトラブーよ。それを滅ぼしたならば、悩むことがないのだ。

現代の人々にとって、怒らない日を過ごすことは生きる上で大切な指針とすべき大切なことである。怒りやイライラや不安は多くの人にストレスとなって、様々な病気を引き起こしているからだ。心も体もその人自身の怒りと、人から怒られることで生じる恨みでズタズタになって、訪ねてこられる。その人は怒り続けることで
心に罪の意識が生じる。また、毎日の生活の中で怒りがなくならないことと、怒りに執着する自分が許せない。このささいな心の争いが心の隅に残って気になり、
イライラが増してゆく。こうして怒りはさまざまな障害と心のねじれをもたらす。
怒りが収まって初めて、安らかに床につける。

釈迦が「ヴァトラブーよ」と呼びかける時、そこにあなたの名を入れ替えてみるとよい。
釈迦が、親しげに呼びかけてくれるのを感じるだろう。
「さあ、君は、怒りを減らしなさい。そうすると、今の悩みは消えてゆく。
もう、その人を許し、その人に、許しの光を送りなさい。」と・・・・・。
そうすると、あなたが救われる。怒りを収めて丹田を練り、ゆっくりと息を吐いて心を静めてみるといい。どんな悪しき状況に置かれても、怒りを収め、許すことを覚えてゆくようにする。ボクシングの世界大会で解説の元チャンピオンが、体験を話していた。
リング上では怒った方が負ける。怒らせた方が勝つ。怒った人は理性を失い、腕の振りも足なみも乱れてくるから、空振りが多くなると・・・・・。
あらゆる世界で怒りは、次のステップのチャンスを失う。

釈迦はさらに次のようにいわれる。
「怒らず、恨まず、欺(あざむ)かず、誹(そし)ることなく、
また戒(かい=いましめ、戒律)を保ち、良き友を得、良き知恵のある修行者は、死んだのちに、来世で悲しむことはない」
怒りによって、人を傷つけたならば、次の転生に影響してくる。怒りは次の怒りを呼び、
来世でその怒りによる苦を自分が味わう。いつまでも怒りの業は消えず、その与えた悲しみとつらさを深く味わうまで、業は追いかけてくるという。
ストレスと怒りは人の心のエネルギーを外に漏らしているのと同じだ、怒り、不安になると、元気が失せ、寝込んでしまうことがあるようにオーラの蛇口が開き、心のエネルギーが失われてゆくのを感じるだろう。
また、ガンは怒りによって発火する。人はみなガンの体質を持っているといわれる。
例えば、蒔きと紙だけで火がつかないように、ガソリンは怒りであり、マッチはストレスである。 怒りとストレスは
マッチとなって激しい火を起こし、薪を燃やし細胞をガン細胞へといざなう。

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より

posted by 仏光さん at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 怒りは病の元

2009年01月10日

悲しい時、悩む時は・・・・

● 99パーセントの人、1パーセントの人

世の中は、99パーセントの人と、1パーセントの人に分けられます。
100パーセントの人が、学校教育や社会に出て働く中で、闘うこと、抜きん出ること、人と争うこと、比べることを教わります。教育と名のつくものは、100パーセントこれをやってきました。しかし、世の中の人は100パーセントそういう方向で生きていくはずなのに、1パーセントほど、その教えから外れる人が存在しています。99パーセントの人が歩んでいる路線とは、違う価値観で生きている人がいるのです。

その1パーセントの人たちとは、大病をした、大事故に遭った、災難、トラブルに巻き込まれた、寝たきりの親の介護をずっと何年もしてきた、大変な苦労をしたなど・・・
を体験した人です。その経験のおかげで、何事もない、当たり前の日々 が淡々と過ぎていくことがどれほど幸せか、ということに気がついた人々です。
そういったつらい思いをしたことによって、普通に生活できることがどれほど幸せか、を感じることができます。例えば、捻挫をして一週間歩きにくくなったことによって、治ってから普通に歩けるようになったことが、ものすごく幸せに感じられます。このように、病気や事故や災難ということをとおして、幸せの本質に体験的に気がついてしまう人が1パーセントいます。
その人たちは、何かを手に入れなくても幸せを感じられるようになったので、ものすごく幸せで ラッキーな人 、と言ってよいでしょう。

では、その幸せを感じられる理由となった病気や事故や災難やトラブルは、不幸なことだったのでしょうか ? その答えは、それは不幸などではなくて、「幸せの前半分」だったということです。大病をしたことと、そこから回復して幸せを感じられることは、ワンセットになっていた。それで、闘うこと、抜きん出ること、人と争うこと、比べることが、自分の人生の中になく、ただ、普通に歩けること、普通に食べられること、普通に話ができること・・・
すべてが、ありがたくて ありがたくて 手を合わせることができる、そういう人が1パーセント生まれるのです。この人たちは「持っていないものを挙げ連ねて、それを手に入れることが幸せだ」と教えられたにもかかわらず、あるとき180度方向転換をして、
「今のままで十分幸せだよね、必要なものは全部いただいている」ということに気づいてしまった。自分も、目の前の相手も、今のままで すでに100点満点であると思えるわけです。

面白いことに、「ほしいものを50個書いてみてください」と言うと、ちゃんと50個書ける人がいます。別荘が欲しいとか、車が欲しいとか、結婚相手が欲しいとか、子供が欲しいとか・・・・・。
「では、同じ数だけ、すでに手に入れているものを書いてみてください」と言うと同じ数だけ書けません。しかし、この1パーセントの人たちに、「手に入れているものを書いてみてください」というと、いくつでも書き出すことが 出来ます。
そして、「では、同じ数だけ、足りないものを挙げてみてください」というと、同じ数だけ書けません。

●「ほとけ」の語源

どうしてでしょうか。それは見ている世界が違うからです。
両方の世界を均等に見ることができる人はいなくて、99パーセントの世界の住人か、1パーセントの住人かに完全に分かれます。この二つはまったくものの見方が違います。ですから、足りないものを50個挙げられる人は、同じ数だけ、持っているものを挙げることができない。
足りないもの、手に入れたいものだけを見つめているからです。
成績が悪いから、もっと成績を上げなくてはいけない。という教育の結果、上昇志向とか、自己啓発とか、向上心というものに、つねに追い立てられて、安らぎを感じることなく疲れ果てて死ぬというタイプの人がほとんどでしょう。

しかし、自分がどれほどたくさんのものを手に入れているか、必要なものはすべて地球や宇宙から与えられていること、どんなに自分が恵まれていて、生かされているかということに気づいてしまった人は、どんな生活をしているのか。その1パーセントの人は「夢も希望もない」暮らしをしているのです。この1パーセントの世界に来た人は、今の瞬間から幸せを感じることが出来ます。しかし、残りの99パーセントの世界の人は、何かを手に入れなければ幸せを感じてはいけないと思い込んでいます。
この洗脳から解き放たれて、執着がなくなった人 を「ほどけた人」と呼び、それが「ほとけ」の語源となりました。「執着」から解き放たれていない人たちが、99パーセントの世界の住人ということです。

● 五つの解決方法

いろいろな問題に出合ったときに、私たちは三次元的に 三つの解決方法 を持っています。
三次元というのは、普通の物質世界・経済社会のこと。
三次元に対して解決方法が三つであるというのも面白いことなのですが、その 一つ目 は戦うこと。討論し、相手と議論を戦わせ、相手を納得させ屈服させ、その人を乗り越える というやり方です。二つ目 は、逃げ出すこと・逃避すること。
この課長のもとでは、あるいはこの社長のもとでは、やっていけないと思い、その 会社を辞める、などというのはこの方法です。
三つ目 の方法というのは、我慢し忍耐を、し続けること。
この方法によって問題を解決する(というよりは先送りしているわけですが、この方法を選んでいる) 人は少なくないでしょう。多分、問題に直面したときに、もっとも多くの解決方法として、この三番目を選んでいるのではないかと思います。

ところが、四次元に、実は 四つ目の解決方法 があります
それは「気にしない」という方法です。

さらに、五次元に五つ目の解決策があります。これはかなりレベルの高い方法なのですが、それは「気にならない」という解決方法です。
もともと、目の前に問題が生じたときに、その問題を解決する方法として、戦ったり逃げ出したり我慢したりする方法を考えたのでした。
それに対し、問題を認識しないということで、まったく初めから問題を感じないという、そういう根源的な解決方法があるわけです。

つまり、問題を問題として認識しないという人格の在りよう・在り方が、もともと問題を生み出さないという考え方です。
仮に、私が「やーい、出べそ」と言われたとします。
その言われた「出べそ」ということが私にとって事実であるならば、私は気になりません。
本当のことを言われたのだから腹は立ちません。逆に、「出べそ」でないのに「出べそ」と言われたのであれば、それは事実を指摘されたのではないので、別に気にならないわけです。「出べそ」であることを「出べそ」と言われて、事実を言われたのだから気にならないのと同様に、「出べそ」でないものを「出べそ」と言われて、事実ではない指摘をされたことについて、まったく腹は立たないわけです。

つまり、事実であれば腹は立たないし、事実でないならば腹は立たない。
どちらも腹は立たないわけで、それはどちらも「気にならない」のです。
つまり、初めから問題がない、問題をつくらなければ、問題を解決するという考え方もないわけです。問題を問題としない人格、まったく気にしてない人格をつくり上げることが、すべての問題の根源的な解決につながっているような気がします。

立花敏伸氏HPより
posted by 仏光さん at 15:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 悲しみ、悩みの解決法

2009年01月09日

欲望に生きると死に悩む

釈迦はいう 欲望に基づいて、生存の快楽にとらわれている人々は解脱しがたい。
彼らは欲望に溺れて、吝嗇(りんしょく=けち)で、不正になじんでいるが、死ぬ時に苦しむ、「ここで、欲のままに死んで、我らはどうなるのだろう」 と・・・・・。
それ故に、世間で 「不正」 であると知られているどんな事もしてはいけない。
「人の命は短いものだ」 と賢者たちは説く。

生存の快楽とは解りやすくいえば、「いつまでも死にたくないと、死を拒否する人々」の
ことをいっているのだろう。現代医学は、人をなかなか死なせない。生に執着し、老いを拒否しても、それは人の領域を越えるもの。とても不死を得ることは不可能。
不正になじみ、自分の都合と自分の欲のみを果たし、人の役に立つことをも拒否してきた。
人は、死にあたって「ここで欲のままに死んで、我らはどうなるのだろう」と思い悩む。
現代もこの生き方で死に際して悩む人は多い。釈迦の時代も、変わらず、そういう人がたくさんいたのかなと思わせる。

本当に人の命は短いものだ。強風に飛ばされる秋の枯葉みたいなものだ。
いくら枯れ木にしがみついても、あっという間に風に舞って、去りゆく所さえ解らない。
不正になじんで、お金をたくさん持った人は、人の傷みと悲しみと喜びの区別がつかなくなることが多い。少し貧しいくらいが丁度いいのだが、人は皆お金持ちを目指す。
釈迦がいわれるように、不正であると知られるどんなことにもなじんではならない。
それで蓄財をしても、たちまち 失われてゆく のを経験する。

不正で得た蓄財は軽く、感謝がない分、割れガメから水が少しずつ漏れるように漏れてゆく。生き金 とは、自分や自分の家族のためでなく、また、自分たちの快のために使うのではなく、他の人々の喜びのため、弱き人々のために使うお金をいう。
それは、また冬の日に 居心地のよい陽だまりに人が集まるように帰ってくる。

北川八郎氏著 ブッダのことば「百言百話」より引用

2009年01月08日

小欲知足は幸せの第一歩

禅の言葉に 「吾(われ)唯(ただ)足(た)るを 知る」 と言うのがある。
京都、竜安寺方丈の北側にある蹲(つくばい)は、水戸光圀が寄進したと言われて
いるものだが吾・唯・足・知の四文字を組み合わせた 「五知足の蹲(つくばい)」として
よく知られている。

地位も名誉も財産もあまり欲張らず、
今ある状態を常に感謝して日々を過ごせという教理。

決して多くを求めず、あるがままに満足する喜びを知る事すなわち、次から次へと
欲望を膨らませず 足るを 知る(満足する) 心を持つことが大切である。と説いた。

つくばい : (茶庭の手水鉢石の手水鉢を低くすえてあって、手を洗うのに茶客がつくばう事から つくばい という)

昔、昔のことであります。大変貧しい村に一人のお坊さんが立寄りました。旅の途中であったけれども、その貧しさに心動かされ何とか村の人達を助けようと思われました。着る物も、食べるものもなく、みすぼらしい小屋に住んでいる人々は、お坊さんの気持ちに深く感謝しました。 さて、お坊さんは、川原へ行き石を選び、村の東の外れに一体、西の村の外れに一体、それぞれお地蔵様を建立されました。村人を集め、石を重ねたお地蔵様の開眼供養の法要をおごそかに務められました。
その後で、こんな話をされました。 東と西のお地蔵様は皆にとって大切な仏様ですよ。西のお地蔵様はどんな小さな願い事でも成就される仏様です。ただし東のお地蔵様は願い事をしても何も叶えて下さらない仏様ですよ。然し、私は西のお地蔵様より東のお地蔵様を皆は拝むといいよと言い残して旅立って行かれました。 そこで村人達はこのように話し合いました。

今のお坊さんの話では東のお地蔵様を拝むといいと言われたが、東のお地蔵様は願い事を叶えてくれない仏様であるから願い事が叶うかどうかを試す必要はない。然し、西のお地蔵様は、どんな大きな願い事でも、どんな小さな願い事でも叶えて下さる仏様だと言われた。そこで、代表を立ててお坊さんの言葉が本当かどうか、仏の働きが誠かどうかを調べてみようと言うことになり、一人の青年が代表として選ばれました。
「お地蔵さん、お地蔵さん、私は村人を代表して、初めてお願いに参りました。
生れてこの方、白いご飯を腹一杯食べたことがありません。どうか、お地蔵様、私に腹一杯のご飯が食べられるだけのお米を下さい」 とお祈りを捧げました。
翌朝、青年が目を覚し、仕事に出かけようと外に出るとそこには米俵が一俵置いてありました。お地蔵様が願いを叶えて下さったことに感謝し、家に戻って、腹一杯ご飯をいただきました。 これを聞いた村人達はお坊さんの言葉は本当だったと納得し、われもわれもと先を争って、西のお地蔵様に願い事を持ってお参りしました。
或る者は食べ物を或る者は衣服を、そして或る者は住む家をお地蔵様に願いました。
それぞれの村人達は、それぞれの願いが叶い、今までとは打って変わって、それはそれはぜいたくな生活ができるようになり、不自由さは感じなくとてもいい生活に変って行きました。しかしその頃から、西のお地蔵様への願い事の内容が以前と違ってまいりました。
「お地蔵様、お地蔵様、私の家の西隣りの家は、私の家の屋根棟より一尺も高い立派な家になりました。西隣りの家のことは何も叶えて下さらないようにお願いします。でも、私の家は西隣りの家よりも更に立派な家にして下さいますように」

つまり、他人のことはどうでもよく、自分のことのみ欲を増して行くような願い事をするように、村人全員がなって行くようになった。 和とか、人への優しさとか、思いやりとかいう、人の持つ慈悲の心がいつしか無くなって行きました。
そんな時、お地蔵様を建立された お坊さんが旅の帰りに立寄られ、 「ほんに、豊かな村になったものよ」 と、出合った村人に話を掛けられました。
村人が言うには 「生活は確かに豊かになりました。しかし、心だけは一層貧しくなりました」 と言いました。
「私は、皆に東のお地蔵様を拝むといいよと言って旅立ったのになあ」 と言われたとか。
つまり、この話は少欲知足の大切さを解っていただきたい為の仏教説話です。

※ 「慈悲の心」 とは、「与楽抜苦」つまり、人々を慈(いつくし)しみ、心の楽しみ、安らぎを与える心であり、人々の苦しみを とり除き、相手の悲しみを共にする心をいうものである。 (他に対する思いやりの心)

●「少欲知足」 の足るを知る と言うのはひとくちに言うと
「物質的に乏しくても、精神的には充実した生活の喜びを知ること」である。
御殿の様な家に住んで泣いて暮らしている人もあり、プレハブ住宅の中で常に笑いがこぼれ、明るく暮らしている人もある。
幸せというのは 心の持ち方で決まって来るということである。

幸せになりたいと思ったら、私たちは、日々起きてくる、また消えていく、そういった目先の現象にとらわれることなしに、また、自分と他人を比較して考えることをしないようにするのが大事です。
自分と他人を比較しますと、どうしても他人の方が何かよく見えてきて、それで、 あの人の方が自分より幸せそうだと、自分も幸せになりたいからといって、 自分にないものまで自分に求めていったりすることになって、 結局は自分で自分を苦しめるという悪循環が起きてくるわけです。

●『仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)=お釈迦さま臨終の際の最後の教え』にも知足の人は地上に臥(ふ)すと雖(いえど)も、なお安楽なりとす。
不知足の者は、天堂に処(しょ)すと雖(いえど)も 亦意(またこころ)に称(かな)わず。
不知足の者は、富めりと雖(いえども)も而(なんじ)も貧し。

足ることを知っている者は地べたに寝るような生活であっても幸せを感じている。
しかし足ることを知らない者は天にある宮殿のような所に住んでいても満足できない。
足ることを知らない者はいくら裕福であっても心は貧しい。お釈迦様は人間の欲望は大きければ大きいほど人を苦しめるんだと、お経の中で言っておられます。

「多欲の人は利を求むること多きがゆえに、苦悩もまた多し」 と、「少欲の人は無求無欲なれば、即ちこの煩(わずら)いなし」と、こういうふうなことを言っておられます。
欲望というものは大きくなればなるほど人間を苦しめるということを教えているわけです。
ただ、人間の欲望というのは人が生きていく原動力にもなっているわけですから、これは人間生きている限り絶対に滅することはできない。
ただ、欲望を小さく抑えることはできる。努力して我慢をするといいますか、欲望を抑えていくことはできる。少なくとも今与えられているものだけで十分だと自分に言い聞かせることによって、欲望の無限大の肥大を抑えることはできる。少欲知足は幸せになるポイントです。

  「どこで生きようとも、害心ある事なく、さまざまな苦難に耐えて、恐れる事なく、何でも得たもので満足し、何物にもとらわれず、あるがままに生きよ 感謝の心を忘れず、正しく生きよ。」  釈迦

※正しく生きよ・・・六波羅蜜・八正道の実践

立花敏伸氏HPより
                       
posted by 仏光さん at 11:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 足るを知る

2009年01月07日

苦しみの元は自分の自我

野球の試合で、あなたがピッチャーをつとめることになったとします。

最終回の裏、同点でツーアウト満塁。しかもツーストライク、スリーボールです。

「もし、フォアボールを出してしまったらどうしよう」
「落ち着け、自分ならやれる」
「恥はかきたくない。いや、そんなことはどうでもいい。
ベストを尽くせばいいじゃないか」・・・・・・・

次々と心に雑念がわいてきます。
これでは、ボールのコントロールを云々(うんぬん)する前に、
心のコントロールができなくなってしまいます。

このように、わたしたちが悩むのは、
失敗と成功、名誉と不名誉、損と得、苦と楽、勝ちと負け・・・・。

二つの感情や考えの間で、心が一方へ行ったり、反対へ行ったりする。
あるいは、一方だけに執着してしまうからです。

誰だって、自分のことを良く思われたい。得をしたい。いやな目に遭(あ)いたくない。
と、考えるものです。

この「自分は」「自分だけは」という気持ちこそ、
相対する感情や、考えの間をうろつかせたり、
一方へ固執(こしつ)させたりして自己を苦しめる犯人なのです。

これを「自我」と呼びたいと思います。言い換えると、
わたしたちが普通、心と呼んでいるのは、
この「自我」にほかなりません。

そして、釈迦は、
苦しみの根源は「欲望と執着」であると説かれています。

人間の欲には果てしがない。
それはちょうど塩水を飲む者が、
いっこうに渇(かわ)きが
とまらないのに似ている。
彼はいつまでたっても
満足することがなく、
渇きはますます
強くなるばかりである。


                                      釈迦 

posted by 仏光さん at 14:43| Comment(0) | TrackBack(1) | 自我

2009年01月06日

災い転じて福となる

【塞翁(さいおう)が馬】─ 淮南子・人格訓


人の世の運命の吉凶禍福は予測できない。禍いも悲しむに及ばず、
福も喜ぶにはあたらないという意味に用いる。 どちらかといえば、
禍いに遭ってもいずれ福も訪れることがあるというほうに多く使用される。

「塞翁」とは、国境の塞の近くに住んでいる老人という意味だが、
原典には、「塞上に近き人」の「父」という言葉が出てきて、
直接「翁(おきな)」という語は用いられていない。
中国後漢初期の歴史家 班固(はんこ)の 『幽通賦(ゆうつうふ)』、
また、『後漢書』 蔡(さい)よう伝には、『淮南子 (えなんじ )』のこの語を ふまえて
「北叟(ほくそう)(=北のとりでの老人)」の語を用いている。

[訳文]
国境の塞に近い所に住んでいる人で、占いが得意な人がいた。
その人の馬がなんの理由もなく、 異民族の地域へ逃げてしまった。
人々がみんなで彼を慰めた。するとその占いの得意な父親が、
「馬の逃げたことが福になるであろう。」 と言った。
数か月すると、逃げた馬が、異民族の名馬を連れて帰ってきた。
人々がお祝いを言うと、
父親は、「このことが禍いになるであろう。」 と言った。
その家には良い馬が増えたので、息子は乗馬を好み、
乗っているうちに落馬して股の骨を折ってしまった。
人々がお見舞いに行くと、
父親は、「これが福となるであろう。」 と言った。
一年たつと、異民族が塞へ攻め込んできた。
若者たちは弓を引き戦った。そして塞近くの人は、
十人中九人まで死んだ。
ところが息子は足が悪かったので、兵役に駆り出されず、
父親と共に無事だった。

このように福が禍いとなり、禍いが福となる、
その変化はとうてい人間の知りうるような浅いものではなく、
その深さは予測できないものなのである。

私も自分の経験から、良い良いと思っていると人間は傲慢になり、災いの種を知らず知らずのうちに蒔いています。大変だ何とかしなくちゃと思って耐えに耐えて頑張ると、ちゃんと良い芽が悪い状況の中で育っています。結局、何が良くって何が悪いのかなんて人間には判らないのです。良い悪いなんて無い。自分がどのような状況にあっても、人間には今、目の前にあるしなければいけないことを一生懸命やる。今、目の前に居る人をみんな大事にする。それが最大限できることです。良いか悪いかなんて後にならなければ判りません。
posted by 仏光さん at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 塞翁が馬

物事は必ず好転する

(上手くいかない時の 「心の処方箋」 )
プラス思考と、現実を受け容(い)れる心


●止まない雨はない (中津文彦)

長い闘病生活・・・「止まない雨はないのよ」というのが母の口癖だった。

つらいことや苦しいことも、じっと我慢していればいつかきっと通りすぎていく。
大正生まれの女性は、そう信じて耐え続けてきたのだろう。

だが、私にはそうとは思えない幼少時代があった。
戦後間もないころに小児結核に 冒され、絶対安静の長い闘病生活を
強(し)いられたのだ。
近頃はあっという間に一年がすぎていくが、遊びたい盛りの子供にとって
五歳から小学校三、四年までという 歳月がどれほど長いものだったか。
この"雨,,はおそらく止まないのではないか。
幼かっただけに「絶望」とは違うニュアンスだったが、 特効薬のないことも知っており、
少なくとも母の言う通りだとは思えなかった。
そんな日々の中で、
幼児なりに身につけていった。"処世術,,のようなものがある。

現状を、 とにかく「こういうものなのだ」と受け入れる、
ということだった。 諦めや、ただ耐えるということではなかった。
元気に飛び回っている友達とわが身を比べても、
何の得にもならない。
閉ざされた自分の世界にも、探せば一つぐらいは
楽しいことがあるだろう ― という程度の、
漠然としたものだったような気がする。

しかし、ラジオも読書もだめ、という病床の中で"楽しいこと,, を見出すのはまさに
至難(しなん)の業(わざ)だった。古い病室の天井は杉板張りで、眼に入るものといえば
白い壁とその天井板だけなのだが、ある日ふとその板目の模様に気がついた。

高い山や低い山、あるいは曲がりくねった川の流れのようにも見える。
見ようによっては、さまざまな景色にも地図にも見えてくる。
そのことにしだいに熱中して、
さらにその景色や地図をもとにしてストーリーのある物語を
次々と思い浮かべるようになった。
朝日がさし込むと、病室の空間に浮遊する塵(ちり)が浮かび上がり、
それがまた宇宙の物語を提供してくれる。"楽しいこと,, は、
探せばどんなところにもあるんだ、とわかったときの嬉しさは忘れがたい思い出だ。

PHP703 12月号より

● この世に存在するもので無駄なものは何ひとつない
     プラスになるようにプラスになるように考えて生きることが大事ですぞ。

● 頑張ってもしかたがない時がある あせってもしかたがない時がある
         降りだした雨はやむのを待つしかない。           

高野山真言宗総本山金剛峯寺

● 私たちが目の前の現象について悩んだり、苦しんだりしているときは、
それを受け容(い)れていないということなのです。
否定をしているということにほかなりません。
悩み、苦しみの根元は「思いどおりにならないこと」思いどおりにしようとしないで、
受け容(い)れよ。そして、感謝せよ。それが幸せになるコツ

立花敏伸氏HP ★小林正観氏著「ただしい人からたのしい人へ」より

posted by 仏光さん at 21:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 物事は必ず好転する

人生を楽に過ごす方法(当たり前の思想)

当たり前の思想

人生が楽になる方法・幸せになる方法として、「当たり前の思想」というものがある。
仮に、「晴れるのが当たり前だ」というふうに考えている人が、毎日天気予報を見るとすると、 曇りだと「つまらない、嫌だ」と思い、雨が降ったら「もっと嫌だ、とっても嫌だ」
という レベルになると思います。
逆に、雨が当たり前だと考えている人には、曇りがちょっと嬉しく、
晴れたときにはものすごく嬉しい、ということになります。

すべて自分の目の前のことが 思いどおりにならなければ嫌だ と
思っている人は、「嫌だ」か、当たり前だ」しか来ないわけです。
実現することが当たり前であり、実現しないことが
嫌なわけですから、「当たり前」か「嫌だ」の二つしかありません。
思いどおりにならなければ嫌だと思っている人は、常に 「当たり前」 と 「嫌だ」 の
二つしか待っているものはないのです。

逆に、思い通りにならなくて当たり前 と思っている人は、思いどおりになったり
思いがかなったりしたときには、
それが「嬉しい、楽しい、有り難い」ということになります。
「思いどおりにならなくて当たり前。だけど叶ってくれたら嬉しいな」と思っている人には、
ゼロか 「嬉しい、楽しい、幸せ」 しかやって来ません。

自分の思ったことが叶うことが当たり前ではなく、叶わないことの方が当たり前であり、
叶ったときには有難いし感謝できる。という心の置きようが実現できたときには、
喜べることが増えて、人生がとても楽しく明るいものになります。

何が当たり前で何が嬉しくて、何が有難いのか。この三つの心の置き所というのをよく
考えてみてください。晴れることが当たり前であったならば、
曇りや雨はつらいものになり、
雨が当たり前ならば、曇りや晴れることはとても嬉しいことであり、感謝になる。

立花敏伸HP 小林正観氏著「ただしい人からたのしい人へ」より



posted by 仏光さん at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 人生を楽に過ごす方法

言葉が人生を創る

言葉が人生を創る


この心のトレーニング法は禅の修業と、当時としては珍しくインドでヨガの修行を積み全く新しい哲学を世に広めた明治の哲学者、中村天風の哲学を基本に作りました。禅もヨガも源流は同じです。一口で言えば人の心の境涯を高めて心の安定と絶対的な安心を作り出していくトレーニング法なのです。『絶対的な心の安心』こそ本当の幸せといえるでしょう。

心を鍛えなければ運も健康も回復しません。しかし、心を鍛えるといっても禅の修業を本格的に出来る人は10万人に一人くらいです。禅寺の僧侶でさえ見性することもなく、葬式と法事の仕方だけを教えてもらって住職を親の代から継いでいる人が多い有様です。ヨガにいたってはダイエット法の一つくらいにしか一般的には認識されていないのが現状ではないでしょうか。

難しい理論や知識ではなく、誰にでも出来る心のトレーニング法は、毎日ほんの少しの心がけで絶大な効果を発揮します。自分の体を使いプログラムに従ってトレーニングを続けてください。本を何冊も読んで知識を増やしても、分かっている気になっているだけで心は鍛えられていません。いざという時に知識だけでは何の役にも立たないのです。ほんの少しの時間でも、自分の体を使って行うことによってのみ始めて心が鍛えられて、幸せに近づいていきます。

幸せとは心の状態です。『これが有れば幸せ、これが無ければ不幸せ』などという事はありません。資産家や肩書きがある人でも不幸せな人は掃いて捨てるほど世の中にいます。それほど物質的に恵まれなくとも幸せな一生を過ごす人も数多くいます。どちらかといえば、物質的に恵まれるほど、それに比例して自分が持っているものを失う不安も増大するので、「もっと欲しい、もっと欲しい」とあくせく心を費やしては不幸せになっていく人が多いようです。日々、自分が流されていても幸せは永遠に訪れません。幸せも運も健康も自分でこちらから作り出すものなのです。
さあ、もう一日も自分の人生の時間を無駄にすることは出来ません。このプログラムを毎日読んで今日から心を鍛えて本当の幸せと健康を作っていきましょう。自分が死ぬ一日前に幸せになっても遅くは無いのですから!
(天風録より)

言葉と心

言語には、すこぶる強烈な暗示力が固有されている。
だから積極的人生の建設を志す者は
消極的な言語をたとえ戯れにも口にしてはならないのである。

具合が悪いときに具合が悪いといったら
具合が悪いのが治るかい?

正しい心を作る言葉の大切さ


私は今後かりそめにも、わが舌に悪を語らせまい。
否、一々わが言葉に注意しよう。
同時に今後私は、もはや自分の境遇や仕事を、消極的な言語や、悲観的な言葉で、批判するような言葉は使うまい。
終始、楽観と歓喜と、輝く希望と溌剌たる勇気と、平和に満ちた言葉でのみ活きよう。

自分は力だ
私は力だ。
力の結晶だ。
何ものにも打ち克つ力の結晶だ。
だから何ものにも負けないのだ。
病にも、運命にも、
否、あらゆるすべてのものに打ち克つ力だ。
そうだ!
強い、強い、力の結晶だ。

笑うこと

さあ今日から、努めて笑うことにしましょうや。
特に悲しいことや辛いことがあったら、
いつにもまして笑ってごらん。
悲しいこと、辛いことのほうから逃げていくから・・・・・

天地の『気』


この宇宙にはプラスの『気』とマイナスの『気』が存在します。プラスの『気』は万物の創造をつかさどり、マイナスの『気』はその破壊をつかさどります。

ミクロの世界で見てみると、人間の細胞は約90日〜120日で全て新しい細胞に生まれ変わります。古い細胞は死に新しい細胞が創られるからです。マイナスの『気』が古くなった細胞を死に導き、プラスの『気』が新しい細胞を創りだします。マクロの世界で見ても、古い星は大爆発を起こして崩壊し、そのガスや塵から新しい星が生まれます。このように宇宙には創造の『気』と破壊の『気』がミクロの世界からマクロの世界までくまなく働いているからこそ、新陳代謝が行われ、万物は変化しながら存在し続けることができるのです。

言葉にはそれ自体に強烈なエネルギーが宿っています。昔の人はこれを『言霊』と呼びました。宇宙は万物に対して大変公平にできています。プラスの言葉を発すると、そのエネルギーはプラスの『気』となって自分に還ってきます。反対にマイナスの言葉を発するとマイナスの『気』となって自分に還ってくるのです。宇宙は自分が困って嘆いているからといって「かわいそうだな。よしよしお前だけ助けてやる」などということは絶対にありません。『これが怒らずにいられるか!これが悲しまずにいられるか!』といくらがんばってみても宇宙は裁判所ではありませんから、マイナスのエネルギーに対してはマイナスの『気』、プラスのエネルギーにはプラスの『気』が必ず帰ってきます。

したがって、何時いかなる時も、プラスの言葉のみを使うことです!決してマイナスの言葉を発してはいけません。





心を鍛える日常の心得(プログラム


寝る時の心得 
1)
「腹が立つこと」『悲しいこと『辛いこと』『心配なこと』など消極的な言葉で作られる概念は決して寝床に持ち込まない。考えれば考えるほど『楽しくなること』を思い浮かべて寝る事。
2)
寝る前に鏡の前で自分の顔に向かって、自分のなりたい状態を命令的な言葉で話す。たとえば『お前はもっと元気になる!』『お前はもっと信念が強くなる!』『お前はどんな状況でも笑って生きるようになる!』などと発声する。
・ 真剣に命令すること。
・ つぶやきくらいの声でよい。
・ 一回だけ命令すること。(2度3度と繰り返さない)
・ 命令事項は一つだけにすること。
・ 命令したことが現実化するまで命令を変えてはいけない。
・ 寝る直前にするのが効果的。

目覚め直後の心得
3)
前夜命令したことをすでに具体化された状態で断定した言葉で表現する。たとえば『お前はもっと元気になる』と命令したら、それを『今日私はもっと元気になった!』と自分に聞こえるように言う。
・ 目覚めた直後に言うこと。
・ 鏡を見ても見なくても良い。
・ 一日中回数を多く言うほうが良い。

日常の心がけ
4)言葉づかい
『苦しい』『困った』『悲しい』『さみしい』『腹が立つ』『助けて』など消極的な言葉は絶対に口にしないこと。
5)感謝一念
いま自分に与えられているものを一つ一つ数えてみる。如何に多くのものが既に自分に与えられているかに気づき感謝すること。決して不平不満を言わず、『正しく』『楽しく』仲良く』の三行を生活のモットーとすること。

6)三つの禁止
今日一日、『怒らず』、『恐れず』、『悲しまず』の実行。

7)心のチェック心が積極的か消極的か常に客観的に検討し、少しでも消極的な心は積極的な言葉で追い出すこと。『悲しい』と思うときには『嬉しい』、『辛い』と思うときには『楽しい』と言葉に出して言うこと。

8)他からの暗示に対する警戒
マスコミなど他からの暗示事項を検討し、積極的なものは取り入れ消極的なものは拒否する。「占い」は消極的な暗示の最たるものである。

9)対人態度
常に明るく朗らかに、生き生きとした態度で接すること。

10)取り越し苦労厳禁
『さし当たる、その事のみをただ思え、過去は及ばず、未来は知られず』
取り越し苦労は絶対にしない。忘れる事。

11)正義の実行
本心、良心に反した言動は絶対にしない。

12)緊急時の心得
不安な気持ち、恐怖、怒り、悲しみ、寂しさなど、マイナスの感情が出てきたら即座に『ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。・・・・・・・・・・・・』と何回も何回もマイナスの感情が消えるまで念仏のように唱える。
『ありがとうございます。』は感謝の言葉。言葉の中でもっとも強いプラスの『気』を発する言葉です。

以上の心得を毎日読んで、毎日常に実行すること。2〜3ヶ月で効果が無いと思い勝手に中断しないこと。これだけで、心と体は必ず元気を取り戻します。また、少々の事では心がへこたれなくなるので自分の運もどんどん向上していきます。


posted by 仏光さん at 20:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 心のトレーニング

職場の人間関係に悩んだら

例えば、貴方が100人の会社に勤めていたとします。その職場で人間関係に悩んでいたとすると、その解決方法は二つあります。一つ目は会社の経営者、従業員100人全員を人格者に変えるのです。二つ目は、貴方が人格者になるのです。

100人の人間を全員人格者に変えるのは大変なことです。事実上不可能です。だったら貴方が人格者になってしまう方が100倍簡単でしょう。なるほど「あいつが悪い、こいつが裏切った。」社会ですから色々あるでしょう。しかし社会の中で生きていくのにはどうしても色々な人と関わらなくてはなりません。その中には自分が憎たらしいと思う人にも長い人生出会わなければなりません。これをお釈迦様は「怨憎会苦」と言って人間の「苦」の原因の一つに数えました。2000年以上も前から人間社会にはこのようなことで苦しんでいる人が貴方だけではなくいっぱい居たのです。

人は普通自分は正しいとどこかで思っていますから、自分と合わない相手が悪いと思ってしまうのです。そして如何にその人が悪いか実例を丹念に挙げて自分の正当性を確立します。確かに社会的に悪い奴も世の中にはいっぱい居るでしょう。しかし、犯罪まで行かなくても自分と気が合わない人間は普通周りにいっぱい居ます。憎たらしいと思う人間も周りに居るでしょう。

嫌な相手を排除して好きな人だけで周りを固めてしまうことができればいいのですが、事実上それは無理です。もしそれをしてしまうと、今度は自分が社会の中で立ち行かなくなるでしょう。好きと思っていた人間もいつかは自分との違いに気がついて嫌になるかもしれません。いい奴だと思っていても裏切られることもあるでしょう。したがって、そんなことで嫌がったり、怒ったりしていても一生きりが無いのです。実際世の中の99%の人はこのきりが無いことを一生涯やり続けて人生を終わります。

ではどうすればいいのでしょう。それは自分が理想とする人格者に自分がなればいいのです。少々のことで相手にカリカリ来ない、大らかで大きい心の持ち主になる。好きな人も嫌いな人も一切合財面倒が見られる度量の持ち主になる。まあ、人によって理想は色々あると思いますが、要するに相手がどうのこうのと気にならない人格の持ち主になるのがやはり他人を人格者に育てるより、一番速くて簡単な方法なのです。

とは言っても、自分はそこまでの人格者になれないと思われるでしょう。私が実践した方法でいい方法があります。朝、目が覚めると「今日一日自分と出会う人は家族でも、職場の同僚でも、隣のおっさんでも、電車の中の他人でもみんな大事にする。」と自分に言い聞かせてそれを実行するのです。自分が今日会う人はみんな大事にして、相手の反応がどうであれ、それ以外の事は考えないようにします。こいつは好きだ。あいつは嫌いだなどと考えない。もちろん犯罪的な行為に対しては冷静に相応の対処をするだけで、相手がどうのこうのと思わないようにします。

これは私の経験上非常に有効な手段で、自分も気持ちよく一日が過ごせます。続けていくと相手の反応はいちいち気にならなくなるばかりか、皆からも自分が大事にされるようになります。特に嫌いだと思っていた相手からも援助が受けられることもあります。毎日やると効果覿面ですよ。これを毎日一生やれば、どれほどの効果と心の平穏が自分に返ってくるでしょう。考えてみてください。

posted by 仏光さん at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 職場の人間関係に悩んだら

自己紹介の続き

さて、いったん世の中で言う成功から転がり落ちた自分に再度人生にチャレンジする力を与えてくれたのは坐禅ですが、時を同じくして自分には人の体の不具合を癒す力があることに気づきました。自分の手を当てるとぎっくり腰でもすぐに治る事が分かったのです。一般的には気功とか呼ばれていますが、自分の場合何も習ったり、訓練したわけではないので、生まれつき備わった能力でしょう。

その話はそれなりに広まって、九州大学の高尾先生などと共同研究するようになりました。今は名古屋大や大阪大学の先生などと共同研究しています。

さて、今はこの能力を活かし、また、学校に通って人を癒す技術を学び、自然治癒の療法院をしています。殆どの人が短期間に回復されるので、それなりに評判になりぼちぼちこれでやっていけるかなとも思っています。大学の先生方も見学に来られるようになりました。

鉄くず屋で3年間働いた後、人材コンサルタントの紹介である化学メーカーの役員になりましたが、そこで過去傲慢だった自分と同じようなオーナー経営者に出会い、自分があのまま社長をしていればこんな人間になってしまったのだぞと、天から見せられているんだなと思いました。本当に自分もこの人のように、威張り散らかして皆に嫌われ、それでも本人は気づかず、一生を棒に振るところでした。こうなると、社長を首になり大変な目に逢った事が、かえって自分にとっては良かったのだと、過去の自分と同じような人を前にして心から思えるようになりました。人生とは不思議なものですね。

今はそのときの仕事で知り合った会社の役員をしながら、会社のすぐ近くで療法院をしています。もちろん禅の修行者として日々の坐禅も欠かしません。まあ、坐禅するために働いているようなものですから。実際、苦しい思いをしたお陰で人の苦しさ、悲しさ、悔しさが分かる自分になれたと思います。また、その経験が自分に坐禅を通して「ちゃんと生きなきゃもったいない」と思わせるようになったと思います。本当にありがたいことです。今の自分は朝目が覚めて、今日も生きているだけで「ありがたい」と思えるようになりました。

posted by 仏光さん at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己紹介

人間関係が人生疲れの原因となる場合

大体多くの人の相談を聞いていると、人間関係が人生を疲れさす原因となっていることが多いです。夫婦、家族、職場、近所、皆人間関係で悩んでいます。それにはまず、目の前の人が、自分の考え、生き方、価値観とは違うということを認めることが解決の第一歩です。例えば夫婦間であれば、妻と夫がお互いに全然違うということを心から分かると、お互い喧嘩をしなくなります。わかり合おうとか、説得して理解をしてもらおうとか、話し合えば歩み寄れるなどと思わないほうがいいようです。相手を丸ごと認めると、カリカリせずに仲良く暮らせるようになります。悩み、苦しみ、苦悩、煩悩とは、何かを自分の思い通りにしようとした瞬間に生まれるのです。

自分のことですが、私と妻は全く違うタイプの人間であるとあるとき気づきました。ご多分に漏れず、私も「何で分からないのだ。いったい何を考えているのか?」「自分の奥さんがこのようでは困る」と思い、いつもカリカリ言い合いをしていました。ある時立花敏信さんという方が仏の教えを説いたサイトで上記のことが書いてあり、それを読んでハッとしました。自分は自分の思うように奥さんにして欲しかったのです。奥さんに自分のことを自分が希望するように分かって欲しかったのです。自分が思うようにしたいと思った瞬間から自分の苦が始まっていることに気づきました。

「家内は自分とは違うのだ!」これを思った瞬間に何にもカリカリすることが無くなりました。いったん違いを受け入れてしまうと後は楽なものです。今は円満に毎日過ごしています。こうなるとこっちの方が怒って暮らしているよりよっぽど楽でいいなあと思えます。今となれば分かりませんが、もともとお互い好きで一緒になったわけですから怒らなくても普通に人と話すように冷静に話しあうと、普段の生活で起こる不都合はほぼ全部解決できます。中には時間のかかることもありますが、世の中で人と仕事をしたりする場合、時間のかかる案件も普通にあることです。それと同じです。こりゃ良いことにきづいたなと思っていますよ。

posted by 仏光さん at 12:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 夫婦の関係に疲れたら

はじめまして

禅の修行者、仏光です。仕事柄、色々と人生相談を受ける機会が最近特に多くなってきました。不安や悩みで一杯一杯で心を病んでいく人が如何に多いかと切実に感じております。そのように困っている人に私ができることは何かなと思い、ブログを始めました。

さて、私の生まれた家は寺でもなんでもなく、社会人になってから仏門を叩き、縁があって臨済宗円覚寺派の老師に入門することになりました。もともと禅の修行者は托鉢をして、お金やお米を貰って生きているのですが、今の寺は葬式や法事でお金を貰って生きています。しかし、私一人ならいいのですが、既に家族もいるので働きながら本格的な禅の修行ができる場があることを知り、入門しました。したがって、托鉢の代わりに自分の仕事をして、その他の時間は坐禅をしたり、もっと直接的な修行の時間に当てています。

禅とは生活そのものが修行ですので、働くことも私にとっては修行の一環です。禅ではこういう労働を作務と言います。したがって、働くことも、禅道場で雑草を取ることも全く同じ作務で同じ意味合いです。2年間毎日坐禅をして、老師との禅問答で最初の公案を通り、見性して「仏光」という道号を頂きました。

今から思うと、仏門に入る前の私は一般に言うとんでもない人間でした。若くして外資系の事業に成功したためにお金に困ることは無く、お決まりのように傲慢で他の人間を馬鹿にした、なんとも情けない人間でした。飲む打つ買うは当たり前で、家庭も全く顧みず、それでも社会的地位はあり金もあるので、ベンツなどに乗りながら「俺は偉いんだ、文句あっか?悔しければお前も俺と同じようにやってみろ!」と心の底から思っていました。

ある日頼みにしていた外資の本社が敵対買収されることになりました。「そうなればいつか自分は首になる、今のうちに会社を作っておこう」と思いその準備をしていたら、それがバレて本当に首になってしまいました。全くアホみたいな話ですが、そうなると大変です。それまで「自分はビジネスの天才だ!」と思っていたのが一瞬にしてへなへなになってしまい、一人では何もできない自分がいて「いったい俺とは何と情けない人間だろう。明日からどうして食っていこう。」終いにはうつ的症状も出てきて、何度か死のうと思って実際にロープを手にしたこともありました。その時なぜ死ななかったかと言うと、「死んで今より状況が良くなるというのが約束されていれば死んでも良いが、死んだらあの世で今より悪い状況になるかもしれないのでやめて置こう。」と単純に思ったからです。

その後は一から人生をやり直してきました。今まで社長室でふんぞり返っていた自分ですが、縁があって鉄くず屋で働くようになりました。ただ、色々な本に書いてあるような格好いい一からのやり直しではなく、毎日が自分のプライドのせいで辛く、もちろん仲間にも入れず、涙を流しながら働いていたというのが実際のところでした。

しかし、世の中捨てる神あれば拾う神ありで、心の救い方を求めていたら禅とも縁ができて入門を許され、また、修行を始めたお陰で自分には本人さえ知らなかった隠れた能力があることを発見したのです。
posted by 仏光さん at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 自己紹介